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一 国破れて山河あり
浦賀引揚援護局
二 和歌山県勤務
商 工 課 長
三 地方自治法の施行と愛知県勤務
労働組合と勤労会館
四 戦後の法律と地方行政
私の行政と法律についての考え方
五 桑原県政の発足と講和記念事業
企 画 課 の 設 置
六 国土総合開発
総 合 開 発 |
七 特別市制問題と地方計画の策定
市 町 村 合 併
八 東海製鉄の誘致と臨海工業地帯の建設
九 伊勢湾台風と災害復旧
一 三 号 台 風
十 副知事は補佐役
副 知 事
十一 都市と地域開発
西欧の都市問題を視察して
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P114
浦賀引揚援護局
昭和二十年十一月晴嵐荘を退荘して、敗戦の世の中に出た。東京は焼野原で、上野の山から下町方面を見ると、一面の焼跡に、風呂屋や工場の煙突だけが方々に立っているが、煙は出ていない。皇居の宮殿は焼けたといわれるが、お濠や松の緑のたたずまいは昔のままだ。霞が関の官庁街は焼けないで、警視庁や内務省の建物は戦前のままだが、お濠端の第一生命ビルが占領軍総司令部(GHQ)で、丸の内辺から、日比谷辺にはアメリカ兵がたくさん歩いている。大して驚きはしないが、余りよい気持はしない。
内務省に行き、神社局時代から病中にもご厄介になった安田巌氏にお目にかかり、ご挨拶をし、今後のことを相談した。安田氏は、「戦後の混乱の中だが、何よりもまず役所に復帰し、地位を確保して置くことが必要であろう」と言われた。戦後の事情を考えて、厚生省に復職するようにということで、厚生省の秘書課長の葛西嘉資氏に連絡をとって下さった。厚生省に出頭し、葛西氏にお目にかかった。葛西秘書課長は気安く会って下さって、新しく設置する引揚援護局の方に採用するが、どこがよいかと言われた。東京の近くがよいと申し上げたら、浦賀引揚援護局に手続を進めると言われた。
町村金五氏は終戦時の警視総監として、帝都の治安保持の大任を果たされて、当時は東京都次長の職におられたので、都庁に参り、病中のお礼を申し上げた。町村氏はその後占領行政によって公職追放を受けられたが、二十六年に追放解除、翌年北海道一区から衆議院議員に当選され、四期連続当選された。衆望によって三十四年北海道知事に立候補当選し、三期一二年間知事として北海道の発展に尽くされた。さらに四十六年より参議院全国区議員に二期高位で当選され、現在(昭和五十七年)参議院議員会長の重責に任ぜられている。この間私はずっと厄介になり、ご指導を受けている。
昭和52年参議院選挙、愛知県選挙事務所にて 町村金五氏と筆者 |
私は退荘後一旦郷里に帰った。単身赴任のため家族は田舎に置き、ほんの身の回りのものをリュック・サックに詰めて背負い、小さなトランクを提げただけで上京した。十二月二十二日付で、厚生省から、「任厚生事務官、叙高等官六等、厚生省浦賀引揚援護局総務課長を命ず」という辞令を頂いた。
厚生省で浦賀引揚援護局についての大要を承って、電車で横須賀線の終点、久里浜駅で下車し、引揚援護局の庁舎を尋ねて行った。庁舎はようやく仮事務所から、元海軍砲工学校の校舎を庁舎として移りつつあった時で、門に浦賀引揚援護局の新しい看板が掲げられており、中に入ると、学校の教室にそれぞれの部課が部屋割されて札がかかっていた。総務課の部屋には二、三人の軍人さんがおり、私がここの総務課長に任命された旨を話し、ひとまず自分の椅子に落ち着いた。そのうちに、課員の人達も来て挨拶した。
この頃のことは日記も残っていないし、長い療養生活から、戦後の混乱した世の中へ出たばかりで、全然経験もない新しい仕事が次から次へと起こり、それに対応しなければならなかったので、日時や事件なども正確な記憶はない。幸い、この一文を書いている時に、厚生省から『引揚援護三十年の歩み』(昭和五十三年四月五日発行)が出版されたので、これを参考として引揚援護事務の概要を記すことにしたい。
敗戦後、外地に残った六六〇万の軍人・軍属及び一般邦人を内地に引揚げさせるということは、戦後の最大の緊急課題であった。昭和二十年十月十八日GHQの指令によって、引揚事務は厚生省が責任官庁として指定された。引揚指定港に地方引揚援護局が設置されることになって、浦賀をはじめ十余か所に設けられた。
浦賀引揚援護局は神奈川県知事が局長であったが、現地の事務は勅任官の次長である豊原道也氏が総括担当し、総務部、事業部及び第一復員部(陸軍)、第二復員部(海軍)の四部があって、その下に各課があった。その他に陸軍・海軍及び民間人の引揚援護所があった。一般の事務には厚生省及び神奈川県の職員が多く任命されていた。
新しい仕事で一応の官制はあるが、先例も処務規定もなく、職員も新たに集まった人達である。私は総務課長で事務の要(かなめ)にあるが、役所の経験はほとんどなく、しかも療養所から出たばかりで、戦後の世の中の事情も分らない状態であった。そんな中で、次々と上陸して来る引揚者の収容・援護の仕事があり、現地で補助職員の採用や、資材の調達、各課の事務調整などの仕事を次々に処理しなければならない。その上に、現地の占領軍の方から時々責任者として次長が呼ばれると、そのお伴をして出頭しなければならない。各課長も新しい仕事で処理に困ると、総務課に持ち込むので、何とか相談して処理しなければならない。まるで戦場のような現場仕事で、速戦即決による処理が必要であった。総務課には課長の下に厚生省から理事官の小野延君、神奈川県からの係長杉本三木雄君等の敏腕有能な人達と数人の係員、及び陸軍から少佐一名、大尉一名が付けられていた。特に、陸軍から来た村松少佐は明朗なしかも有能な人物で、シビリアンと軍人の間をよく調整してくれた。
第一復員部と第二復員部も官制上は次長の下にあるが、引揚の現場事務はそれぞれ独立でやっている。陸軍の方は新たにここに移って来た人達が多いので協力的である。第二復員部の方は海軍の本拠で、ここ横須賀に戦時中からいた人達が多いので、何かと気位が高く、「厚生省の連中がなんだ」という気分が強くて、調整には苦労させられた。
宿舎は、海軍の下士官が上陸時に宿舎兼クラブとして使用した建物を利用し、厚生省関係のものは次長以下大部分のシビリアン職員がここに泊っていた。食堂は海軍の食堂を使用したが、海軍は物資を豊富に持っていたので、戦後としては割合に食事が良かったので助かった。
天 皇 の 行 幸
浦賀時代に一番印象に残っているのは、昭和二十一年二月二十九日に天皇の行幸があったことである。二月初めのある晩、仕事を終えて宿舎に帰ると、急に宿舎の次長の部屋に総務部長と事業部長と私が呼ばれた。豊原次長は深刻な顔つきで腕組みし、しばらく黙然としていたが、「唯今電話で陛下が当援護局に行幸されて、親しくご視察になるというご内意がその筋からあった」と言われた。
豊原次長は警察出身で、戦前の地方行幸がどれほど重大なことであるかということを良く知っていた。これが終戦後初めての地方行幸であって、援護局の実情からも、地方の治安等からもお迎えできるかどうか、非常に心配されたのである。相談の結果、行幸と決定されたからには最善を尽くしてお迎えすることになった。
大急ぎで準備にかかった。この少し前の一月に、高松宮と同妃殿下が御視察にお出でになり、その時も、お迎えの準備やご案内についていろいろ苦労があったが、今度は行幸ということで、準備計画も大変であった。治安や警備は警察やMPに委せるとしても、ご視察の場所や沿道の状況の調査なども大変であった。道路や橋も不完全なので、御料車が通行できるかどうか、四トン貨物自動車に砂利を満載して通ってみるというようなこともあった。
私は局長がご説明申上げる説明書を大急ぎで起案して、清書の上で、前日夕方ようやく神奈川県の知事公舎に持参し、当時の内山知事にお目にかかってお届けした。
行幸の当日、陛下は局の庁舎にお成りになって、局長が概要をご説明申し上げた後、各援護所を回って、軍人や民間の引揚者にいちいちていねいにお言葉を賜ってご慰問された。帰還者は大変感激した。殊に、病床の軍人などは涙を流し感激したそうである。私は庁舎に残って連絡に当たっていたが、無事ご帰還という報告があった時は、ほっとするとともに急に疲れが出た。
コ レ ラ の 発 生
行幸も無事に終わり、引揚援護局の事務も段々軌道に乗り、概ね順調に進んできた時に、引揚船にコレラ発生という問題が起こった。
伝染病を内地に入れないために、引揚船の検疫は厳重であった。引揚船は浦賀港の泊地で船内検疫を行って、異状がなければ、アメリカ軍の検疫将校の許可を受けて上陸させた。検疫所で米軍の立会いで、頭からDDTの粉末を吹きつけて一人一人消毒し、検診したのち風呂に入れる。さらに各種の予防注射をし、衣服を着替えさせる。そうして各援護所に入れて、復員や帰還手続をさせた。特に、コレラの検疫は重視された。
夕食後まだ庁舎に残って事務を執っていた時、三月九日広東から日本に向かっている航行中の引揚船VO七五号にコレラ患者が発生したという無電による情報が入った。どこが上陸港になるかが、皆の話題の中心であった。上陸港は航行中に占領軍から指定されるのだが、多分検疫施設の整備されている大竹援護局が指定されるだろうと思い、それを願っていた。ところが、コレラ船は浦賀上陸を指定された。
それから次々とコレラ船が発生し、浦賀入港が指定されて入って来た。コレラ患者が乗っている船は港に入っても、占領軍の命令で海上隔離をされて、その船に患者が発生しなくなるまで、上陸が許されない。毎日検疫の医官が船にいって、患者の治療をする。長い年月外地にいた人達が、懐かしい祖国の山河を目の前にしても、故国は占領軍の支配下にあって、上陸ができない。そして、コレラ感染の恐怖の中で、船中生活を余儀なくされている引揚者の胸中は、察するに余りあるものがあった。
こうして、次々に浦賀に入港した船は沖に停泊し、最も多いときは総数三〇隻に達した。まるで一都市分の人口が、海上に集まったようなもので、今でも船の並んだ様子が目に浮かぶ。これに対して、食糧や水や医療薬品・日用品の補給も大変である。死体や患者の排泄物は海洋投棄が許されないので、陸上に運んで検疫所の火葬場や海岸の空地で、重油をかけて焼却するという状況であった。
停泊した船に行って治療検疫に当たる医官の仕事は大変である。患者の治療のほかに、いつ上陸できるかという不安にかられている引揚者の愁訴や抗議も多く、時には不穏な空気が盛り上がる。こうした中で、全国の大学や日赤及び各方面の医療関係者の応援や、各方面の協力の下に、必死の防疫体制が進められ、しだいにコレラの発生も止まって、六月四日には海上隔離が全部解除された。
外地からの引揚者―――名古屋駅 (昭25.1.29) |
当時の記録によれば、乗船者総数六七、三二六人、患者四七八人、揚陸死体一四一体という膨大な数字である。戦後の敗戦による混乱と物資欠乏の中で行われた水際作戦が奏功し、内地に一人もコレラ患者が発生しなかったことは、占領下にあっても、日本人の発揮した組織の力と同胞愛の力を示すものであろう。
六月に入ると、コレラ船問題も一段落し、浦賀への引揚げのピークも概ね終わり、しだいに仕事は整理期に向かった。私は七月初めに、和歌山県勤務を命ぜられた。
思えば療養所から出たばかりで、役所の仕事も知らない病後の私が、各方面の寄合世帯の新しい役所で、しかも戦場のような忙しい現場で、組織の要(かなめ)ともいうべき総務課長の任務が勤まったのも不思議なことである。それだけに、上司や部下の方々をはじめ、各方面のご協力とご援助によって、とにもかくにもその任務を果たすことができたことを心から感謝している。
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商 工 課 長
昭和二十一年七月十二日付で、内務省から和歌山県勤務を命ぜられ赴任した。和歌山県では、商工課長兼製塩課長の辞令を頂いた。単身赴任なので、商工課の方で園部桃隣というお茶の師匠が素人旅館を兼ねていた家の一室に下宿するように手配してくれた。園部桃隣さんは裏千家流の宗匠で、なかなか立派な茶人であった。私も時に稽古に来ている若い娘さん達と一緒にお茶を頂くこともあり、お手前を見せてもらうこともあって、抹茶の飲み方を習うこともできた。
和歌山県は、大阪に近い北部は商工業が発達しているが、南部は山地が多く、古い時代は熊野本宮や熊野水軍の根拠地があって、京都の朝廷や大阪と深い関係があるとともに、特別の独立性をもっていた。江戸時代は徳川三家の一つ紀州徳川家の領地であった。明治時代にも、政争の激しい県として知られていた。気候は温暖で、繊維や雑貨等の産業も発達し、農産物や水産物も豊かで、住みよい土地である。
知事は川上和吉氏で、上司の経済部長は桐谷勝三郎氏であった。警察部長は政治力抜群の高見三郎氏で、後に衆議院議員、文部大臣になった人で、われわれ有資格課長をよく指導してくれた。また、民生部長は後に日本赤十字社の部長として、ソ連抑留者の帰還で手腕を発揮し、『興安丸』の名著のある高木武三郎氏で、社会福祉のために活躍しておられ、現在もきわめて懇意にして頂いている。初めての県庁勤務としてはよい環境であった。
和歌山市は、お城と商店街をはじめ、市の大半は戦災を受けて焼失したが、県庁とその付近から和歌浦方面にかけては焼け残っていた。戦災地の整理や、戦後の混乱は一応整理されて、復興に向かう時であった。行政では、食料と生活物資の調達が一番重要な時期で、県庁では、食糧課と商工課が最も重要な仕事をしていた。
私は県庁勤務は初めてであり、商工行政については何の知識もなかったが、県の行政は引揚援護局の場合と違って、行政組織や事務運営のルールが確立しており、課員にも人材が揃っていた。実際の事務は主任(現在の課長補佐)が中心になって処理され、各係長もベテランが多かった。前任課長の播磨重男君もなかなかの手腕家であった。戦後の混乱の中で物資調達・配給のルートを確立しておいてくれたので、仕事は軌道に乗っていた。
物資不足の時代なので、商工課は最も重要な幅のきく課として、どこへ行っても大切にされた。当時の内務省任命の有資格課長の多くがそうであったように、行政の実務は主任以下がやってくれて、組織の上に乗っていれば、自然に仕事が進んで行き、多少足下が安定しない不安があったが勤まった。
製塩課というのは、戦後の食塩不足の折柄、各工場が一般資材不足で生産ができないので、余剰電力で海水を蒸留して食塩を製造したり、海岸で塩を製造していた住民の指導や配給の監督をやっている課であった。主任以下少数の課員がいて、事務は主任に委せていればよく、商工課とは部屋が別であったが、時々行って決裁をすればよかった。
しばらく下宿生活をした後、秋には家族を連れて来て、県の北河岸町の公舎に住むことになり、数年ぶりで家内や子供達と一緒に生活することができるようになった。
南 海 地 震
この年の年末近く、和歌山地方は南海地震に見舞われた。南海地震は十二月二十一日午前四時一九分、潮岬南南西五〇キロの沖合を震源地とし、マグニチュード八・一、高知の中村では震度六の烈震、和歌山では震度五の強震で、本州中部以西から四国及び九州の太平洋岸一帯に及んだ大地震であった。
ちょうど夜明に近い就寝中の地震襲来であった。公舎は北河岸町にあって、この辺は埋立地なので、縁側が傾いたり、雨戸が壊れたりしたが、家は倒れなかった。一度外に出て安全を確かめた後、市中に火災が起こったかどうか二階に上がって眺めたが、幸いに火災の様子がないので、ひとまず安心して再び床に就いた。間もなく、県庁から連絡があって出勤した。
県庁に出勤すると、知事以下幹部が続々と集まってきた。地震によって、海南市から南の海岸地方一帯が津浪にあって大きな被害を受け、詳細は調査中であるが、早急に対策を講じなければならないということであった。地震といえば火事を連想していたが、うかつにも津浪には気がつかなかった。
段々情報が集まると、和歌山市の被害は軽微だが、海南・下津・田辺・新庄・南富田・周参見(すさみ)等の、県の中部から南部の海岸線の湾岸や河口付近に被害が多いことが判明した。また、新宮市では地震によって火災が生じ、市の大半が焼失した。
この時の和歌山県の被害は、当時の記録(建築学会報)によれば、死者一八九人、行方不明七四人、負傷者八四六人、全壊九六四戸、半壊二、四二九戸、流失三八六戸、浸水一一、八一五戸、焼失二、三九九戸、船の流出・破損一、〇〇〇隻であった。私も海南市の被害状況を視察したが、津浪の恐ろしさには驚かされた。
県庁をあげて災害対策に入ったが、商工課としては、被害者に対する被服その他の日用品の調達と配給の仕事を担当した。当時の物資欠乏の中で、その苦労は並み大抵ではなかった。物資の配給割当は大阪商工局が権限を持っていたので、和歌山市駅から南海電車で、毎日のように大阪商工局に通った。当時は南海電車は混雑し、朝夕は乗客が座席まで立っているという状況であったが、和歌山市駅から難波まで直通で行けるので便利であった。四国地方に比べると、商工局との連絡がよく、情報の伝達や陳情も便利で、物資の調達については、割合に成績を挙げることができた。
一度、一月になってから、知事のお伴をして東京に行き、商工省を初め各方面に陳情したが、この頃は戦後でも一番汽車の運行が不便な時で、大阪・東京間の直通列車は一日一本、それも各駅停車の鈍行であった。知事でも夜半から大阪駅で汽車に乗り込み、辛うじて三等座席に坐ることができたという状態で、網棚の上まで人が乗っていて、未明に大阪を発車し、夕方ようやく東京へ着いた。正に敗戦日本のドン底の時代であった。
二・一ゼネスト
戦後GHQの指令で、昭和二十年十二月に労働組合法が制定され、組合の結成が推進された。官公労の組合の結成が進んで、和歌山県庁においても職員の労働組合が組織され、商工課の係長が委員長をしていたが、割合に穏健な組合であった。
昭和二十二年に入り、二・一ゼネストが全国労働者共同闘争委員会によって計画された。県庁でも青年層を中心に一部急進分子が屋上に集まり、組合総会を開きゼネスト参加を決議した。知事が部課長を集めて対策を協議した結果、寒い屋上で一部の者によって決定されることは適当でないので、各課において、課員の全員投票で決定することになった。
当時は組合の性格も明確でなく、課長も組合の一員であった。課員全部を集め、自分は一組合員の立場で「公務員がストを行うのは、一つは革命の実行のため行う場合だが、占領軍の軍政下でゼネストによって革命を行うことは不可能であると思う。第二は自己の信念で違法を承知で職をかけて行う場合だが、この場合は自己の行為について責任をとることが必要である。しかし、ストに参加するかどうかは各人の自由意志で投票によって決定するので、各人の自由意志に任せる」と言って無記名で投票を行った。結果は賛成は僅かで、大多数は反対であった。他の課も全部反対多数で、県庁全体は平穏に不参加が決定した。
占領下において、ゼネストで革命ができるかどうかは冷静に考えれば分ることだし、後になれば「何を馬鹿なことを」というようなことも、時流の激動期には、その渦の中にいると方向を見失って押し流されるおそれがある。責任者はいざとなれば、自分が全責任をもつ覚悟で腹をきめる必要があることを痛感した。
地方課長と四月選挙
南海地震対策や二・一ゼネストの騒ぎが一段落して、この年四月には新憲法施行を前にして、我が国の政治の機構一新のために、各種選挙が一斉に行われることになった。四月五日に知事と市町村長、二十日が参議院議員、二十五日に衆議院議員、三十日に県議会と市町村議会の議員と、一か月に全部の選挙が行われることになった。
この四月選挙を前にして、三月二十六日付で地方課長に任命された。私は選挙法の基本ぐらいは行政法の中で勉強しているが、選挙の実際事務や手続のことは未経験であり、急なことで勉強している余裕もない。それに当時は交通通信も不便であり、物資不足のはなはだしい時で、用紙の入手や選挙に必要な資材の調達も容易でない。毎日居残って事務を行うための食糧の特配とか、停電に備えてローソクの用意など、どれ一つでも思うに委せない。それに、選挙施行の規程などもゲラ刷りのようなもので送ってくるとか、電報で指示してくるとかというありさまで、行政の常識から言えば全く無茶苦茶というほかないが、占領軍の絶対命令の下では、何としても実行しなければならない。
地方課の職員は伝統的に行政事務の訓練がよくできており、選挙にはベテランが揃っていて、実に手際よく事務を処理して、次々に来る選挙を手落ちなく実施して行った。
この時の知事選挙では、和歌山県では現職の川上和吉知事が立候補し、第一回目の選挙では最高点であったが、当時は有効投票の八分の三以上を得なければ、上位二人で決選投票が必要であったので、決選投票が行われることになった。この決選投票において二、三位が連合したために、第一回目の投票では二位であった小野真次氏が一位となって当選が確定した。
私は四月選挙が終わって間もなく、内務省の最後の地方事務官の異動人事で、五月二日付で愛知県勤務を命ぜられた。
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労働組合と勤労会館
地方自治法施行と同時に、愛知県に勤務することになった。和歌山県で上司であった経済部長の桐谷勝三郎氏も愛知県の経済部長となったので、一緒に赴任した。二人とも子供が大勢あるので、引越しなどもなかなか大変であった。
当時の名古屋は戦災のため、市の中心部はほとんど焼野原で、満足に残った建物は名古屋駅と県庁、市役所ぐらいであった。名古屋のシンボルである名古屋城も焼け落ちて、金の鯱(しゃち)も見ることができなかった。
当地では、新築された南外堀町の公舎に住むことになった。公舎は六畳二間、四畳半一間に台所がついたもので、和歌山の課長公舎に比べると小さいものだった。塀もなく隣とは竹の柵で区画されているだけだが、一戸建ての公舎で、しかも県庁の構内のような場所にあるので、戦災で通勤に苦労している人が多い当時としては恵まれた住居であった。
愛知県では労働部の労政課長を命ぜられた。労政課は二十二年一月、新たに労働部の新設の時に設けられた課で、前任者の内務省同期の永見昌司君が警察の方に移った後任で、公舎は隣合わせであった。
労働行政は戦後労働三法が制定され、労働基準法関係は国の出先機関の労働基準局があったが、労働組合法と労働関係調整法は県の労政課の所管で、職業安定課とともに労働部に属した。労働部は県庁本館南側の新しい仮庁舎であった。地方労働委員会の事務も合わせて行っていたが、設立されて間もない課で、労働組合の登録や組織の指導、組合情報等の事務を行っていた。
職員も馴れない仕事であったし、当時は労働組合に対する一般の理解も薄いので、中小企業の経営者などは、「県が組合の設立を指導するなどは怪しからぬ」という意識があったようである。また、大企業や官公労の方は二・一ゼネストにみられるように、政治闘争的傾向が強かった。県関係でも職員組合や教員組合が組織されていたが、当時は政治運動の色彩が強く、組合の幹部の鼻息も荒く、人事や行政事務に干与しようという傾向が強かった。労働協約の締結についても、人事や教育管理に干与する条項の問題で当局と対立し、労政課長の意見を求められたこともあった。
私は、「労働組合法によって組織された労働組合は、職員の地位の安定と福利厚生を目的とする団体で、人事や教育方針について干与すべきでない」と遠慮なく意見を述べた。したがって、当時の組合の人達からは、反動と言われていたようだ。
私は労政課長の就任の時に、青柳知事から、労働会館を設立するように指示された。それで、県が中心になって労働組合代表と使用者代表及び名古屋市と協議し、協議会を設けて、設立について協議した。建築費についてはそれぞれで協力し、分担方針もきまったが、当時は資材の割当がないと建設許可が出ないので、組合の代表者と経済安定本部や、戦災復興院、労働省などに再三陳情した。随分苦労して、ようやく建築許可を得て、鶴舞公園の一角に新築が決定し、二十二年十月起工式を行うことができた。
労働会館は翌年五月竣工した。今の勤労会館に比べるとチャチなものだが、名古屋で戦後初めての本格的建築といわれ、全国でも有名であった。この建設の仕事で、労働組合の方々とも懇意になり、行政がスムーズに進むようになった。しかし、私はその竣工を待たず、二十二年十一月に学務課長に任命された。
六三制への移行
県の教育行政は二十一年十一月に設けられた教育部が担当し、教育部には学務課、社会教育課、体育課の三課があった。学校教育関係の大部分は学務課で所管し、私は学務課長とともに社会教育課長も兼務していた。
学務課は事務量が膨大で、職員は事務係と教育関係に分かれていた。教育関係は中等教育関係と小中学校教育関係に分かれて、それぞれに主任視学(旧視学官)及び視学がいた。その他に教員組合推薦の視学委員がいた。事務関係は管理係一係で、きわめて手薄であった。
戦後の占領行政は日本の民主化を行うために教育改革に重点を置き、GHQに民間情報教育局(CIE)があって、文部省に指令して、次々に教育の改革を進めた。
天皇崇拝と国家主義排除のため、修身・日本歴史及び地理の授業が停止され、教科書の不適当と思われる箇所の墨塗りや、御真影奉安所の撤去などが行われた。次いで、教員適格審査が強力に行われ、愛知県でも二十二年四月現在で一七〇名の教育者が不適格者として教育界から追放されていた。また、二十一年三月には、アメリカから教育使節団が来て、我が国の教育事情を視察し、教育制度の大改革と教育の民主化について勧告した。これにより、小学校六年、中学校三年、高等学校三年、大学四年のいわゆる「六三制教育」の教育体系が実施されることになったのである。
我が国の再建のために、教育の改革をすることは結構だが、国民性も教育制度も違う我が国に、アメリカの方式を一気に適用し、占領軍の強力な指導で実行しようというのだから、受ける方は大変である。
当時の我が国は、ほとんどの都市は戦災で校舎は焼失し、名古屋市では国民学校一三〇校のうち、全焼七二校、半焼一八校で、豊橋・岡崎・一宮などの戦災都市も同じようであった。疎開先から帰って来る学童を何とか教えるだけでも容易でない。青空教室や二部授業など稀ではなく、しかも教師も不足している時に、新制中学制度を実施するのであるからなおさらである。市町村の当事者はもちろんだが、県の学務課の苦労は大変であった。
二十二年四月新制中学校は発足したが、大部分は独立校舎はなく、小学校や青年学校の施設の一部を利用したり、青空教室だったりしたので、雨天には傘をさして授業するという状態もみられた。当時の遠藤慎一学務課長は過労のために病に倒れ、空席になっていた後任に任命されたわけである。こうした火事場のようなところで、次から次へと問題が多い上に、当時は教員組合の人達が毎日のようにやって来て、夜遅くまで団交をやるということも多かった。
市町村の方では財政窮乏の中で、村長や村議会議員が連帯で農協から金を借りて、新制中学の校舎を建設するところもあり、その校舎の建設位置をどこにするかで村内が対立し、調停のため現地に出かける場合も多かった。「教室と供出は町村長の命とり」という言葉もあった。こうした中で、何とか新制中学を軌道に乗せ、二十三年四月には新制高校を発足させなければならなかった。
新制高校は中学校、高等女学校、実業学校を基礎にして設立するが、単に名称の変更であってはならない。新制中学を卒業して入学するのであるから、旧制高校とはゆかなくても、できるだけ高等学校として充実したものとしなければならないと思った。しかし、名古屋市をはじめ都市の中等学校は、戦災を受けているので施設が足りない。施設の不備を補うには教育に当たる教師の力が大切で、高校の発足に当たっては優秀な人材を集めたいと思った。特に、新しい高校の発足には、校長に優秀な人物を任命したいと思い、旧制高校や専門学校からも人材を求めようと、いろいろ努力した。しかし、当時の事情ではなかなか思うようにゆかなかったが、とにかく四月一日に新制高校を発足させ、校長以下の任命を終わってほっとした。
ジョンソン旋風
こうした時に <ジョンソン旋風>が襲来した。高校再編成は三月から京都に始まり、関西の各府県・九州・北陸などの新制高校に対し、その地方の軍政部によって、強力に指導されたものであったが、近畿地方軍政部の教育課長として辣腕(らつわん)をふるったジョンソンが、六月に東海北陸軍政部の教育課長として赴任し、愛知軍政部とともに早速新制高校の改革方針を示した。
当時の教育関係者はその強引な改革をジョンソン旋風と呼んでいた。改革の内容は、(一)男女共学制、(二)小学区制、(三)総合制、の三原則の実行と、中学校優先の立場から、高校を統合して、校舎を新制中学にできるだけ供出すること、一高とか県一高女とかいうナンバースクールの名称を廃止することなどがおもなものであった。その方針を実施するために、公立高校を県立、市立を一本にして整理改革することを指示した。
県では軍政部の意向によって、豊田利三郎氏を委員長に、財界の有力者をもって、新制度実施のための特別委員会を設け、学務課が事務局になって、「新学制完全実施のための教育施設再編成計画基本方針」をつくった。
ようやく発足した新制高校を解体して、県立・市立を一体に考えて、どの学校を合併して再編成するか、校舎の利用計画はどうするか、地図をにらみながら学区を区画する作業、男女共学で旧中学校には女の便所をどうして造るかとか、どの高校の校舎を中学校に転用するか、全く普通では考えられないようなドラスチックな改革を実行させられた。この第一次高等学校再編成によって、県下は、県立五五校、市町村立二九校計八四校あった公立高等学校が県立三八校、市町村立一一校計四九校となった。特に、名古屋市内では多くの高校校舎を統合によって中学校校舎に転用し、中学の二部授業の解消に役立てた。また、一中とか県一とか、市一とかいう歴史のあるナンバースクールの名称も消えた。
その間には、軍政部との度重なる折衝や、父兄会の代表からの注文やら、いろいろ問題も多かったが、とにかくこの難問題を実行することができた。特にその中で、高校発足の際に旧制中学の三年生はそれぞれの高校に併置されていた併設中学校にいたが、軍政部の方からこれを新制中学校に移すように指示があった。しかし当時の新制中学の三年は、高等小学校の二年を一年延長し名称を中学に変えたもので、旧制中学の三年とは課程も学力も格段の差があった。教師も違っていた。これを学年途中で変更するのは両方の生徒のためにならぬと思い、愛知軍政部のバーディック教育課長に説明し、高校に附置して置くよう主張した。バーディックは初めは真赤な顔で怒っていたが、事実に即して熱心に説明したら、さすがにアメリカ人だけに、それぞれの生徒の学区の高校に残すことを承知した。これは無理な改革の中でのせめてもの思い出である。
この改革は占領軍の軍政下でなければとうていできない改革で、その後の教育のためには功罪いろいろであるが、現在の新制高校の骨格を造ったものであることは間違いない。
新制高校の再編成方針が実行され、一方では、教育行政の民主化のため教育委員会制度が実施された。十月五日に教育委員の公選が実施され、十一月一日には教育委員会が発足した。
私は高校の再編成案ができた機会に、教育委員会制度の発足を前にして、九月九日付で総務部地方課長を命ぜられた。
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私の行政と法律についての考え方
私が地方課長に任命された頃は、地方自治法によって公選された市町村長と議会によって、新しい地方自治が一応軌道に乗っていた。私は和歌山県で、短い期間であるが地方課長の経験もあった。
地方課は選挙事務をはじめ、市町村行政の連絡指導を行うために、法令に基づいて事務を処理しなければならない。また、当時は県においても市町村においても、地方自治法施行から日も浅いので、新しい条例、規則の制定もしなければならなかった。それで、総務部長を委員長に、法規に明るい課長を委員として法規審査委員会をつくった。私は副委員長となって、実質的中心として審査をやらなければならなかった。
私は前にも述べたように、高等試験に合格し内務省に採用されたが、間もなく病気になって長い療養生活を続け、戦後役所に復帰した。しかし、これまでは戦後の混乱の中で現場的仕事が多く、それに役所の事務にも馴れないので、目の前の仕事に追われ、落着いて法律書を読むこともできなかった。この機会にもう一度法律書を系統的に勉強し直すとともに、行政の実際経験に基づいて法律を考え、自分自身の法律知識を確立しなければならないと思った。特に戦後は新憲法が制定され、地方自治法はもちろん、民法や刑法、労働法、訴訟法なども大きな改正が行われているので、新しい法律を勉強し、自分なりの法体系の知識と信念をもって行政に当たらなければならないと思った。
幸いに、公舎は県庁の構内のような場所で、通勤の時間がいらない。健康の方も、文字通りの片肺飛行で馬力はないが、これまで劇務に耐えてきて自信もついてきたので、勉強に身を入れることにした。
元来、私はこれまで貧乏と病気の中で生きてきたので、碁、将棋、マージャンのような勝負事に興味もなく、詩、歌、俳句や、芸ごとについては趣味も能力もない無精者である。これはけっしてほめられたことではないが、病弱の身で生きてゆくために、已むを得ず習い性となったものである。書斎で本を読むことは、いわば自分の安息の場であり、自由の世界ともいうことができる。学校の教員時代にも、学校の授業に関することは学校で片付けて、家では主として法律や経済や哲学の勉強を自分なりにやってきたので、役所の仕事をやりながらでも、本だけは読める。もちろん病弱の身体は自覚しているので、出世とか世間的の名利とかは忘れて、自分なりに納得のゆく勉強ができればよいと思った。
法律の勉強といっても、学者になるための勉強ではないし、今度は試験のための勉強でもない。日本では学問というものは大学で勉強するものであって、大学で授業を受け、一定の課程を修めて卒業試験に合格すれば専門の学問を修めたことになる。そして、学歴というのは大学で何科を卒業したということで決定され、それが一生の看板として通用する。また、高等試験を受けるには、行政科であれ、司法科であれ、それぞれ定められた課目について代表的な参考書を忠実に読みかつ覚え、一般に通説といわれる法律学について一通りの体系的知識をもって試験に合格すればよい。その後は社会に出て、それぞれの職場で実務について経験を積めばよいと考えられている。はなはだしい場合には、学問と実際は違うなどと言って通っている。
しかし、それでほんとうの法律がわかったといえるだろうか。自分自身勉強の結果を省みても、その法律知識は借り物の知識であり、学説の集積に過ぎない。
法律が行政の責任者としての信念と責任に裏付けられたものとなるためには、自分の行政経験や人間としての修行に裏付けられた法律学であり、法律知識でなければならない。王陽明のいう「知行合一」でなければならない。橋田邦彦先生は「行学一体でなければ、真の学問とは言えない」と述べておられる。
日本の法律学者の法律学は、外国法学者の学説を学び、それを根拠としてのものが多く、真に国民生活に基礎を置いて自ら築き上げた法律学とは言えない場合が多い。特に、戦後の法律には、占領行政という特別の事情の下において、日本の実情を知らない占領軍当局者の強制によって成立した法律が多い。こうした法律に基づいて行政を行うには、国民生活の実際との関係を十分に考えて、実生活に即して研究し解釈しなければならないと思った。
もちろん、自分のような者に、それがどこまでできるかは問題であり、それは一年や二年の勉強でできることではなく、生涯をかけて勉強しなければならない問題である。しかし、与えられた職場というものは、橋田先生が言われるように、人間形成の道場と考えて、単なる知識でなく識見をつくる場として、自分なりに納得のゆく努力をする心構えだけは持ち続けたいと思った。
これから述べる戦後の愛知県政や、行政の実際は、自分の行政経験の立場から見た戦後の愛知県政について、自分自身の行政人としての学問と実際の総合統一の軌跡を回顧するという形で述べるものである。したがって、それは、自分が愛知県行政の一端を担当し、その立場から戦後の県政について自分なりの見解を、自分の責任において述べるものである。
戦後の愛知県政の公式の記録としては、『愛知県昭和史』の下巻に詳細に記述されている。また、桑原知事は『世紀を生きる』、及び『桑原幹根回顧録』の二名著を出版され、知事としての立場から愛知県政について述べられている。したがって、県政の記録としては、今さら私如きが蛇足を加える必要はないが、『愛知県昭和史』は現代の県の歴史という制約から、個々の人間の氏名や考え方を捨象して県政を述べている。私は、自分の人間形成の場としての愛知県政を考えて見たいという見地から、敢えてこれを書くことにした。
戦後の地方自治
日本国憲法は第八章に地方自治の一章を設け、「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて法律で定める」と規定した。そして、府県も市町村もともに完全自治体とし、府県知事も市町村長もともに住民の直接公選とした。また一方では、警察制度を根本的に改革し、市及び主要な町村には自治体警察を置くこととした。ただ、自治体警察を置く力のない町村のために、国家地方警察を府県単位に置いた。
そして、内務省を廃止し、旧地方局関係の事務を行うために、総理府官房に自治課を置くとともに、全国選挙管理委員会並びに地方財政管理委員会を置いて、地方公共団体の事務の連絡調整を行うことになった。県は市町村の連絡調整の事務を行うが、制度的には、地方自治体はそれぞれ住民に基礎を置く自主独立の自治体として行政を行うものとした。しかし、実際的には、アメリカとは地方制度の発達が違っているので、中央集権の強い日本の地方行政を一気に変更することは、行政事務の混乱を来たす。また、市町村の実情からも行政及び財政の両面から、国や府県から独立して完全な自治を行うことはできなかった。
府県の職員は知事が任命する地方公務員になったが、旧内務省から任命された地方の部課長の多くは、それぞれの府県の部課長として任命された。これらの人の連絡を通じて、中央地方の行政事務の連絡調整が円滑に保持されたのである。また、地方自治法は旧府県制、市町村制を大きく変革したが、それぞれ規定する条文の中には、府県制、市制、町村制以来の系統をもつ条文が多数残されている。法文を解釈適用するための行政判例や行政実例、通達等も多く生きていて、これによって行政事務の運営が行われた。このため、地方行政は府県が連絡の中心となって、行政事務は国・府県・市町村を通じて一貫性をもって運営され、統一性と安定性をもった行政が行われた。そのため、制度の改正によって地方行政は大きく混乱することはなかった。
行政委員会制度と直接請求
地方制度の改正では、行政の民主化のために、新たに行政委員会制度と直接請求の制度がとり入れられた。
行政委員会として府県に置かれたのは、選挙管理委員会、教育委員会、公安委員会、人事委員会、地方労働委員会及びそのほかに土地収用委員会、農業委員会、海区漁業調整委員会、内水面漁場管理委員会などがある。この中で、選挙管理委員会の事務局は地方課が担当し、地方課長が選挙管理委員会の書記長として事務を行った。
委員は県議会の選挙によって選任され、知事から独立の地位にあった。これは知事公選の制度に伴って必要となった制度であった。しかし、選挙事務は、国会議員をはじめ、知事、県議会議員の選挙を担当、選挙が行われる時は事務量が増大し、極めて多忙であるが、平常は事務量が少ないので、少数の専任書記を置いただけであった。
地方課の行政係又は選挙係が平常事務を行い、国会議員選挙や知事選挙などが実施される時は、地方課長が書記長として選挙事務を総括し、地方課全員がそれぞれ選挙の事務を分担して実施するのである。地方課長は選挙管理委員会の書記長としては選挙管理委員会の任命であるが、地方課長としては知事部局の職員であるので、知事選挙などの場合にはむずかしい立場もあった。
住民の直接請求の制度としては、知事、市町村長及び議員のリコール制度と、条例制定の請求と監査請求とがある。県については、監査請求以外は署名数が膨大な数になるために実際上はできないが、市町村においては、戦後の一時期リコール運動が政治運動の手段として行われたり、新制中学の建設による部落間の対立などで、しばしば行われた。このような場合にも、地方課の指導を要する場合があった。こうした運動も、一面では市町村の旧弊を打破し、民主化を進める上に効果があったが、我が国の実情下では実効を挙げることは少なかったと言わなければならない。
選挙管理と知事選挙
私が地方課長に就任してからは、二十四年一月の第二次吉田内閣の解散による衆議院議員の選挙と、二十五年六月の参議院の半数改選のための選挙があった。占領下の選挙であったので、軍政部から度々呼び出しがあって、選挙事務の執行や選挙の情報等について種々報告を求められた。また、投票日には、占領軍関係者の現地視察などもあった。何よりも民主主義の徹底のためと、住民の政治参加を実証するために、投票率を上げることに努力し、市町村関係者も棄権防止に協力してくれたため、愛知県の投票率は二十四年の衆議院選挙では全県平均で、男八八・八八%、女七九・七四%、平均八三・一三%という高率であった。そしてまた、二十五年六月の参議院選挙でも平均七七・一七%という高率であった。
二十六年の知事選挙では、前回は公職追放のため立候補できなかった元知事の桑原幹根氏が追放解除になって、青柳知事に代わって立候補し、さらに桐谷勝三郎、山内庫三郎両前副知事、元一宮市長吉田万次、及び中峠国夫、須永伊之助、山本剛太などの諸氏も立候補し、合計七名の立候補者による激戦となった。特に、県庁に関係の深い元知事と二人の前副知事が立候補し、庁内でもそれぞれ関係によって対立があった。四月三十日の投票では、桑原候補が第一位となった。当時の選挙法では首長の選挙では有効投票の八分の三以上を当選とする規定であったので、第一位の桑原候補と第二位の吉田候補の決選投票となった。
決選投票は五月十一日に行われたが、この選挙では両候補とも自由党の公認と称し、国会議員や県会議員も両派に分かれて、選挙情勢は互角といわれた。庁内でも第一次の選挙の関係もあって、いろいろとむずかしかった。その上、当時の選挙法では街道における連呼や人海策戦も許されていたので、選挙運動が激烈化した。選挙管理委員会に対しても、種々の抗議や申し入れが多く、選挙管理上に困難な問題が多かった。選挙管理委員会としては、厳正公平の立場で管理に当たり、何よりも選挙事務に手落ちがないようにして、選挙無効の問題が起こらないことに全力を尽くした。そして、決選投票では、桑原候補が三、六七〇票という小差で当選した。
知事の選挙については、選挙による行政事務の停滞とか、選挙戦に関係して、庁内に政争が持ち込まれ、公務員の中立が失われるとか、また行政が選挙のために偏向するとか、あるいは、いわゆる革新自治体などでは職員組合が行政に干与をもつとか、いろいろの問題や意見もある。しかし、戦後の地方制度の改革の要は知事公選であり、この公選知事の制度は地方自治の発展にはもちろんであるが、国政の安定の上においても大きな貢献をしている。そして、首長と議会議員をともに直接公選する、いわゆる大統領制は、我が国においても最も適当な改革であったと思う。
戦前の官選知事の地位は一面では安定しているようでも、実際は政府本位で極めて不安定であり、在任期間が短く、浮き草稼業という言葉があるように、落ち着いて地方のための行政を行うことができなかった。
愛知県の例を見ても、明治時代には深谷一三知事が明治三十五年から大正元年まで十年余の長い間在任したとか、松井茂知事が大正二年から五年余の間在任した例はあるが、政党内閣時代に入ってからは内閣の代わる毎に知事が更迭された。昭和に入ってからは地方自治法施行までの二二年間に一九人の官選知事が就任し、一〜二年の在任期間の者が多い。これに伴って部課長の異動も多く、そのため真に腰を据え、責任をもって職務を行うことができなかった。
現在も国の出先機関の幹部は一〜二年で異動しているものが多い。東京に顔を向けて行政を行っていると言われるように、地方のために腰を据えて職務に当たることが少なく、中央の序列によって官僚の立身出世の踏台になっている状態である。公選によって地方行政の要である知事が住民に対し責任をもち、住民の信任によって長年その地位にあることは地方行政の安定とともに、国政全体の基礎を強固にしている。これが戦後の不安定なしかも政争の激しい時代に、行政の安定と産業経済の繁栄をもたらした一つの大きな原因であると思う。官僚行政は器用でミスが少ないようだが、それはむずかしいことは避けて通るということであろう。
地方財政とシャウプ勧告
地方自治の発展のために最も重要なことは、地方財政の強化である。財政が充実確立しなければ、地方自治は絵に描いた餅である。明治時代は地方自治といっても、それは中央集権の近代国家をつくるための制度であった。国税の中心は地租で、国防は農村の子弟の徴兵によって行われた。農山村の生活は貧しく、町村は自治体といっても、役場の行う事務は義務教育と戸籍や徴兵、国税の徴収という国のための末端事務が多く、地域住民の共同事務は主として部落や町内会で行われていた。第一次大戦後、商工業が発展し都市の繁栄、農村の疲弊が増大したため、地租を地方税とするための地租委譲、義務教育費の国庫負担や配付税も考えられたが、太平洋戦争のために都市農村ともに財政窮乏のドン底に陥った。
戦後民主主義の基礎として、地方自治の強化のために地方自治法が施行されたが、都市は戦災で破壊され、農村は食糧の供出のために苦しんだ。そうした中で、六三制教育や保健衛生施策を実施しなければならなかったために、市町村財政は困難をきわめた。
国も財政難であったので、地方自治の振興といっても、実際には中央本位の財政政策しか行われなかった。こうした時に、昭和二十四年シャウプ使節団がアメリカ政府から派遣され、地方財政の改革と行政事務再配分のための調査がなされ、政府に勧告が行われた。いわゆるシャウプ勧告である。
税制の改革については、地方財政の強化と財政責任の明確化のため、従来の附加税方式を改めて、国税、府県税、市町村税を独立税方式とし、市町村税は土地家屋等を課税対象とする固定資産税と住民税を主とし、府県税は事業税を主とし、それに県民税、入場税、遊興飲食税、煙草消費税等を充てることにした。さらに、地方公共団体の財政水準の保持と住民負担の地域的不均衡を是正するために、財政平衡交付金制度を実施し、国税のうち所得税と法人税及び酒税の一定割合を充て、基準財政需要と基準財政収入との差額を計算して地方公共団体に交付することを勧告した。これは従来の配付税を改善強化したものであるということもできるが、これによって財政貧弱の府県や市町村も、一定の行政水準を維持することができることになった。地方財政平衡交付金はその組入率や配布方法が逐次改善されて現在の交付税となった。
また、地方財政法が制定され、義務教育費の国庫負担や府県支弁等の規定、地方財政と国の財政との関係や、地方財政の自主性などが定められた。
戦後占領行政の行った地方制度改革の中で、シャウプ勧告による税財政の改革と、府県知事の公選制度は、地方自治発展のため最も大きな貢献をしたものと思う。この二つとも、占領軍の力がなければ容易に実現できなかった改革であったといってよいであろう。
また、シャウプ使節団は税財政の改革についての勧告に合わせて、行政事務の配分について勧告した。これは中央政府本位の行政の在り方を改めて、地方自治を発展させるために、第一、行政責任の明確化、第二、行政能率、第三、地方自治尊重、の三原則をたてた。市町村を第一次、府県を第二次として、地方公共団体優先の方針によって、行政をできるだけ住民の身近において行うために、行政事務の再配分の実施を勧告した。
政府はこの勧告を実行するために、昭和二十四年十二月、神戸正雄博士を委員長とする行政調査委員会(神戸委員会)を設けて調査研究し、行政事務再配分について、二十五年十二月、次いで二十六年九月第二次勧告を提出した。
しかしこの勧告に対しては中央各省の官僚からの反対が強かった。その上に、二十五年に朝鮮戦争が起こって、占領軍の方針が変わり、講和条約が締結された。占領行政が終わるとともに、行政事務配分の勧告に基づいて地方自治法に原則は規定されたが、その内容による事務委譲は実質上棚上げされ、実施はされなかった。戦後府県が完全自治体となると中央各省は、かえって地方不信と強い縄張り意識から、競って各省の出先機関を設立強化して、地方行政事務についての権限の拡張を行ったため、国家公務員が増大した。
戦前の行政は、軍事や警察、戸籍等を主にした中央集権的な権力行政が主であったから、中央官庁中心の行政でよかったが、戦後の行政は公共事業や、産業経済に関する事務、住民福祉等住民の実生活に関する行政が主であって、しかも行政の事務量が増大している。したがって、行政は法令や予算だけに頼る形式的な型にはまった行政ではなく、真に住民の実生活を知り、住民の要望にあった行政が行われなければならない。そのためには、住民の身近において、住民の自治を主にした草の根の行政が実施されなければならない。中央官庁では国全体の立場からの企画と調整だけとして、実施は地方自治体の行政に委せることが必要である。
戦後は行政の民主化という言葉だけが大きく称えられているが、依然として行政の実権も財政権も中央政府の手に握られていて、そのため地方自治は徹底しない。特に、我が国では税金は <お上(かみ)>に取り上げられ、中央政府の補助金とか交付税は恩恵のように考えられている。そのため、市町村の自主・独立の精神や負担と福祉が一体であるという実感を失わせる結果になっている。
産業の発達が地域によって大きな差があり、農山村地域の経済力が貧弱である現状で、教育や福祉の水準に均衡を保持するためには、平衡交付金制度は地方公共団体の行財政を充実し、地方自治発展のために大きな効果を発揮する制度である。そして、地方自治の向上のためには中央政府の補助金を整理し、平衡交付金に組入れ、地方公共団体が地域の特性に応じ、創意と工夫によって行財政の効率を高めることが必要である。
さらに、シャウプ勧告においては税財政の改革のほか、行政事務の再配分が税財政の改革と一体に行われてはじめて、地方自治の発展が実現するものであったが、前に述べたように行政事務の地方自治体への配分と、国の出先機関の整理は実行されなかった。この結果、現在のように国の出先機関の膨張を来たし、二重行政が多く、真の地方自治を確立することができなかった。
中央主導の行政は理論的には整然として、そつがないようであるが、出先機関は常に中央の本省の方だけに顔を向け、真に住民のために地方に根をおろして行政を行うことがなく、幹部は一年か二年で腰が落ち着かず、出世の踏台的な地位になってしまう。しかも、出先は多数の人員だけを抱えても、重要なことは何一つ決定できず、二重の手数がかかることになる。行政の民主化と簡素化のためには何よりも各省の出先機関を廃止し、事務を府県及び市町村に移すことが必要であろう。
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企 画 課 の 設 置
前に述べたように、昭和二十六年五月の知事選挙において、桑原幹根氏が決選投票の結果当選し、第二代の公選知事に就任され、桑原県政が発足した。
知事就任に当たり「県民の一人一人と膝を交えて懇談し、大愛知の建設に全力を傾注する」と挨拶された。そしてまず、新しい県政のための、県の行政機構の改革や県職員の任免配置が行われた。
講和条約調印記念式典――金山体育館(昭 26.9) |
この改革で、新たに知事直属の知事公室が設けられ、その中に企画と広報の二課が設けられた。公室長は置かれず、知事直属の部長職の企画長と広報長を置いて、知事のブレーンのような役割を持たせることになった。
私は新たに置かれた企画長に任ぜられ、その下に課長職の企画次長と三係があった。企画課は重要県政の企画調整事務と、国土総合開発法に関する事務、及び知事の特命による事項を担当することに定められていた。
重要県政の企画調整といっても、従来の県の行政組織では、人事と財政を管掌する総務部が各事業部の縦割りの事務を統括して運営されており、予算編成権も人事権もない企画という新しい課ができても、具体的には何から手をつけてよいか分からない。そこで、まず前年に制定された国土総合開発法により、県でも総合開発計画審議会が設置され、その事務局があったので、それを引継いで、豊川用水や愛知用水事業を推進する仕事を始めた。
文化会館懸賞設計一等当選を指す桑原知事 |
文化会館の建設
二十七年四月に講和条約が発効し、講和成立の祝賀式が行われた。桑原知事は平和国家として文化の振興を図ることが第一と考えられて、講和記念事業として文化会館の建設を構想された。当時は名古屋をはじめ、県下の各都市も戦災復興事業が始まったばかりであり、市中は一面の焼野原のままで、衣食住も窮乏していた。県財政も窮迫している時に、美術館、講堂、図書館を総合した一大文化施設を建設するという知事の計画は、県議会をはじめ各方面に反対の意見も強かったので、知事の特命事項として、企画課がその計画を引受けることになった。
愛知県文化会館 |
その頃は住宅建設が急務という機運が強く、そのような中で県議会で文化会館の予算を成立させることは困難があった。また、知事はその設置の場所として市の中心部の栄公園の一画に建設を考えられたので、そのための市や建設省方面との交渉も難航した。しかし、桑原知事の不退転の決意を受けて、これらの問題を解決し、設計は懸賞公募により、小坂秀雄氏の設計が一等に当選した。二十九年二月起工式を行うことができた。まず美術館が三十年十一月に竣工し、三十一年二月に開館した。開館後の管理運営は総務部の所管となり、講堂は三十三年五月、図書館は三十四年三月に竣工した。文化会館はこれを総合したものである。建築延面積は一七、五五六・四四平方メートル、鉄骨、鉄筋コンクリート造りで、戦後建設された文化施設としては全国でも最初で最大の規模をもち、設計様式においてもきわめて斬新(ざんしん)で、機能的にも優秀なものであり、この種施設の模範となった。
なおこの美術館建設に関し、愛知県出身の芸術家藤井達吉翁が、その所蔵した自己の作品と収集された古美術品を、挙げて文化会館に寄贈された。藤井達吉翁については後で述べることにする。
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総 合 開 発
戦後我が国民を焦土の中から立ち上らせ、その復興の希望と勇気を与えたものは国土総合開発である。
終戦後間もなく、GHQの顧問として来朝し、我が国の天然資源について調査した、アッカーマン博士(Dr. Edward A. Ackerman)はその調査報告書『日本の資源――その開発と利用』の中で「天然資源に関する限り日本は乏しい国とは言えない」とし、我が国の豊富な水資源の総合開発について具体的に述べ、「総合開発計画は、何人にも誤謬を指摘されないところの領土の拡張であり、日本人の愛国的努力に対して残された最も有望な現実的分野である」と結び、総合開発による我が国の復興と発展の方途を提案した。
その具体的な手本として、アメリカのTVAの総合開発が紹介された。そして我が国の中央、地方を通じて総合開発の機運が高まり、昭和二十五年五月国土総合開発法が制定された。
国土総合開発法では、計画の策定について、その対象地域によって全国総合開発計画、府県総合開発計画、地方総合開発計画及び特定地域総合開発計画の四種類の計画を作成することを規定している。その中で、まず水資源の開発を中心とする特定地域の開発が進められることになった。
特定地域は、始めは特に重点的に水資源の開発地域を数か所指定する予定であったが、各府県から指定について猛運動が起こり、一九特定地域が指定され、さらにその後の追加もあって、結局、二一特定地域が指定された。
愛知県では、西部の尾張地域が、木曽川流域を中心に、長野、岐阜、三重の三県の関係地域とともに、木曽特定地域に指定された。また、東部の東三河地域は、天竜川、豊川流域を中心に天竜東三河特定地域として指定された。木曽特定地域の主要な事業は愛知用水事業であり、天竜東三河地域の主要事業は、佐久間ダムの建設と豊川用水事業であった。
そこで、関係県は協議して、両特定地域の総合開発審議会を組織し、それぞれに事務局を設けた。木曽特定地域の事務局は愛知県の企画課が担当し、天竜東三河特定地域は静岡県の総合開発局が担当した。その時の静岡県の責任者は総合開発局長の平山博三氏(後の浜松市長、全国市長会長)で、長野県の総合開発局長は相沢武雄氏であった。私はこの両氏とは正に肝胆相照らして協力し、その後ずっと現在に至るまで親交を重ねている。
その頃、我が国の総合開発の模範となった、アメリカTVAの総合開発について、D・E・リリエンソールは、その著『TVA―民主主義は前進する』の中で「総合開発は、第一に自然の一体性によって、支配されなければならない。第二は民衆が開発に積極的に参加しなければならない」と二つのことを挙げている。われわれはこの精神によって、関係各県が協力体制を固くすることと、住民本位の地域開発とに情熱を燃やした。
木曽特定地域幹事会伊勢参拝 ――左より舟木氏、著者、相沢氏、森平氏 |
佐久間ダムの建設
天竜東三河特定地域の総合開発の根幹事業は、豊川用水と佐久間ダムの建設であるが、豊川用水は戦前から地元有志が運動を続け、戦後は食糧増産のため農林省が国営事業として取り上げ、豊川の支流宇連川に宇連ダムの建設を進めていた。その水量を確保し、さらに西宝地方を受益地に編入するには、天竜川の支流大千瀬川の流域変更と佐久間ダムからの分水の問題を解決しなければならなかった。事業の要(かなめ)は佐久間ダムの建設であった。
佐久間ダムは、天竜川の佐久間地点に堤高一五〇メートルのダムを築造し、これを導水して三五万キロワットの発電所を建設する大事業で、下流に調整池発電の秋葉発電所がともに建設された。事業主体は、新たに水資源開発のため政府出資で設立された電源開発株式会社である。ダムは右岸は愛知県、左岸は静岡県で、湛水地域は愛知、静岡、長野の七町村に及び、水没と発電所用地を併せて水没戸数は愛知県富山村の約半分の水没をはじめ二九六戸、宅地七六、〇〇〇平方メートル、田畑四四六、〇〇〇平方メートル、山林四、八〇八、〇〇〇平方メートルの用地補償があり、工事については三県及び地元町村の協力がなければ実施できないものであった。
特に、公共補償には関係地域の県道、町村道、林道等があり、また国鉄飯田線の付け替えという難問題があった。さらに、この工事に関連して、豊川用水の水源として、静岡県地内の大千瀬川上流の大入川及び振草川を流域変更して利用するとともに、佐久間ダムから天竜川の水を取水し、豊川に導水するという大問題があった。われわれ三県の当事者は、各県の利己的立場を捨て、総合開発の理念によって、天然資源を最高度に利用開発し、地域全体の発展を図るということで協力した。国の機関や、関係町村、電源開発会社と数次にわたり協議し、地元町村も各町村及び三県協同の対策協議会をつくり、個人補償については主として電源開発会社と対策委員会で交渉することとした。
その補償交渉は従来の発電所補償にみられた、いわゆる用地屋や用地ブローカーの介入を一切排して、佐久間事務所の木村武事務長と対策委員会の代表が交渉協議し、詳細な補償要綱及び補償基準を設定した。これに基づいて用地の面積や等級に応じて精確に補償額を定めるとともに、家屋や立木、桑や茶等については一つ一つ現地について精確に調査査定して補償した。そして、補償金は町村の対策委員会で管理監督する方法をとったために、他の地域にみるような補償ブームや補償ボケ、補償による無駄使いというような現象はほとんどみられなかった。
公共補償は三県当事者が主となって、電源開発会社、関係町村の対策委員会、国の機関と協議し、調査研究を重ねて、「佐久間ダム開発に伴う水没補償対策についての覚書」をまとめた上、二十八年七月二十一日建設大臣室で、建設大臣、三重県知事及び電源開発株式会社総裁が調印して、電源開発会社に水利権を附与することが決定された。その要点は次のようであった。
一、国鉄飯田線の付替路線は国鉄の調査結果に基づいて、天竜東三河総合開発審議会で決定する。
二、豊川用水の水源計画については、次の通りとする。
1、既定計画の外大入川上流において平水量以上の水量について流域変更を行うこと
2、以上の外不足水量については佐久間ダムより取水すること
三、道路計画については次の通りとし、国及び電源開発会社はこれに協力推進する。
1、右岸にダムサイトから愛知県、長野県に至る湖岸道路を建設する。
2、左岸に長野県から静岡県に通ずる林道を建設する。
豊川用水の水路と受益地域 |
以上によって、難航した公共補償問題が解決したが、この裏では三県の関係者の真剣な調査と交渉があった。特に、国鉄の付替えについては、愛知、静岡両県の県議会でもそれぞれの県側に付替えが主張された。鉄道は道路とちがって駅の位置が問題で、路線が通るだけでは何にもならない。それを紙上の線で争って、面子問題から一歩誤ると政治問題化して、只見川の分水問題のように、両県の対立となって抜き差しならぬ問題になるおそれもあった。私はこの協定をつくるについては、当時の国鉄技師長の藤井松太郎氏(後の国鉄総裁)に会って、国鉄の計画案について伺った。国鉄は静岡県側の佐久間、水窪(みさくぼ)を通る案であるので、これについては、大嵐(おおぞれ)駅を存置することを非公式に諒解を得ており、一方電源開発会社とは、大嵐駅と富山村を結ぶため、天竜川に鷹巣橋を電源開発会社の補償工事で建設する約束をしていた。
また、佐久間からの取水は後に各省と交渉し、豊川用水の事業計画変更によって、年間最大五、〇〇〇万トンと決定したが、その計画が公共事業として決定するのを待っていては、ダム建設に間に合わないので、桑原知事の決断でダム建設中に県費で立て替えて投資を行い、後に公共事業費に繰入れを認める措置をとった。それとともに、新たに静岡県の湖西地方を豊川用水の受益地に編入した。
工事は、ダムは間組、発電所は熊谷組が請負い、米国のアトキンソン社と技術援助契約を結び、新しい工事機械と工法によって行われた。佐久間ダムの建設工事や補償については、電源開発会社で製作した岩波の記録映画や『電源開発十年史』があり、また、建設の経緯については、当時現地で取材した日本経済新聞社の長谷部成美記者の著になるドキュメント『佐久間ダム――その歴史的記録』などがある。また、豊川用水との関係については、愛知県と愛知用水公団の関係者が協力して作った『豊川用水史』に詳しく述べているので、詳細はそれらに譲るが、当時を回想すると、三県の当事者と電源開発会社、関係市町村長が国土総合開発の理念に基づいて誠意と忍耐をもって、公正に研究、論議し、困難な諸問題を解決したため、この大工事は立派に完成した。またそのために、こうした大事業の後に起こりがちな訴訟やトラブルもなく、地域発展の基礎と我が国の産業経済発展の原動力となることができたのであった。
豊川用水通水式 (昭 43.5.30) |
昭和三十一年五月三十一日、佐久間町の現地で佐久間発電所竣工式が盛大に行われた。この竣工式の後、浜松市のホテルで地元町村長の共同主催により、懇談会が開かれたが、電源開発会社佐久間所長の永田年、事務長木村武両氏と静岡県の平山博三、長野県の相沢武雄両氏、それに私が招待された。関係者一同水入らずで、全力を尽くした満足感で一ぱいであり、苦労話に花が咲いた。この席で永田所長が「これまで多くの発電工事をやったが、会社の者が地元の町村長から招待されることは初めてであり、これほど嬉しいことはない」と目をうるませていたのは、今でも印象に強く残っている。
愛 知 用 水 事 業
木曽川特定地域の総合開発の中心事業は、世紀の大事業といわれた愛知用水である。木曽川の上流王滝川に牧尾ダムを建設し、木曽川の水量を調節し、発電量の増加を行いながら、下流の兼山ダムに取水口を設け、岐阜県の東濃地区、愛知県の尾張北東部を通り、知多半島の先端まで延長一二〇キロの幹線水路と多くの支線水路を建設し、これらの地域に農業用水、上水道、工業用水を供給する大事業である。愛知用水は、終戦直後水不足に悩む知多半島の久野庄太郎氏をはじめ、農民の有志がその建設を提唱し、県や国に働きかけ、愛知県や農林省がこれをとり上げて、調査費を計上し、調査の上、総合開発事業として実施することになったものである。事業主体として愛知用水公団を設立し、世界銀行からも建設資金を導入して、公団の事業として実施することが決定した。
ダム及び幹線水路の工事はアメリカの建設技術を導入して公団が実施し、支線水路は、県が委託を受けて農地部が工事を主管し、企画課が県の窓口となるとともに、上水道、工業用水事業は県営で行うことになった。初め企画課に水道係を設け、後には水道建設事務局を設け、私が事務局長を兼任して工事を行った。
世銀代表デフリューズ氏と愛知用水の現地視察 |
愛知用水事業の特色は、世界銀行の資金を導入するとともに、エリックフロア社と技術協定を結んだ点にある。そこに、アメリカの技術及び工事機械を導入するための交渉というむずかしい問題があった。これには農林省農地局で当時の技術課長清野保氏等が主となって当たった。また、そのために世銀の調査団が数次にわたって現地に来て調査した。その案内や調査資料の提供などに、県でも桑原知事を先頭に企画課が窓口となって、農地部や地元市町村と協力してこれに当たった。
これらの経緯や工事の実施については、愛知県と愛知用水公団関係者が共同で作成した『愛知用水史』に詳細に記してあるので、それに譲ることにする。戦後財政力の弱い我が国で、公共事業としてこれを実施することはむずかしい時であったが、外資導入という発想によってその事業を推進することができた。当時の吉田内閣の外資導入による我が国の産業の復興という機運に乗じて、外資導入計画を進め、それがてこになって公共事業費が投入されることになった。公団が設立されたことにより、一般公共事業と別枠で事業費が調達され、僅か五か年という短い期間で工事を完了することができた。
この総事業費は合計四五二億八、五〇〇万円で、その内世銀借款は一七億六、四〇〇万円であった。その他は国庫補助や運用部資金、余剰農産物資金等で調達された。鳴り物入りで宣伝された世銀借款は僅か一七億六、四〇〇万円で、しかもそれは、大部分がアメリカからの建設機械の輸入や技術協力に要した資金であった。このことは、この間における我が国の経済力の発展と、公共事業というものは困難と思われる大事業でもやり方しだいでできるものであることを教えている。そして、外国相手の借款というものがいかにむずかしいものであるか、そして彼らがいかに勘定高く、万全の事業完成の見通しと、資金回収の確実性を考えているかを知ることができた。
愛知用水の水路と受益地域 |
しかし、この外資導入と技術援助によって得られた我が国の土木技術と土木機械の進歩は著しいものがあった。これは佐久間ダム建設についても言えることで、佐久間の工事が始まった当時は、我が国ではダンプカーも、パワーショベルも、トンネル掘削のジャンボも土木業者は初めて見るという状況であった。これらを契機に、我が国の土木技術と機械の利用、さらには機械製造が急速に進歩し、現在は世界で最も進歩した技術と土木機械が製造されていることを思うと、感慨深いものがある。
愛知用水の大事業を実施するについて、われわれ愛知県当局者は、農林省や愛知用水公団と協力し、これらと一体になって、工事の円滑な推進や用地補償等に努めた。それとともに、その水源地牧尾ダムが長野県であるため、長野県の協力を得ることに努力した。同県関係者の斡旋協力の力は大きかった。しかし、私どもが一番苦労したのはその後始末である。愛知用水の工事中とその後の我が国の産業経済の発展、そして、その受益地域の都市化が急速に進展し、それに伴って農地の転用が増加した。一方上水、工業用水の需要が増加し、これに対応しながら当初計画を変更し、農民負担の解決や、水利権の変更による水利用の効率化を図るための施策を実行するという問題があった。これについては、臨海工業地帯の造成に関連して述べることにする。
矢作川総合開発
愛知県は、尾張部は木曽特定地域、東三河は天竜東三河特定地域として総合開発が進められたが、西三河地区は特定地域から外れていたので、県独自で矢作川流域総合開発計画を作成した。戦後間もなく農林省の国営事業として行われた矢作川の支流巴川の羽布ダムの建設とともに、企画課が中心となって、矢作川上流の旭村にダムを建設し、西三河の水資源開発を計画した。これは後に建設省の直轄事業として、多目的ダムが建設されることになった。
これらの総合開発事業によって、愛知県は水資源開発の基礎づくりを行って、産業及び生活に最も大切な上水道及び工業用水の基盤を確立することができたのである。
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市 町 村 合 併
戦後産業経済の急速な復興、発展に伴って、人口の都市集中が進み、地域構造が変わってきた。これに対応して、市町村の区域を再検討するとともに、市町村の行財政を強化するため、政府は昭和二十八年十月町村合併促進法を制定し、町村の規模を人口八、〇〇〇人以上とすることを目標とし、市町村の合併を推進した。
愛知県でも町村合併審議会を設け、合併計画を策定し、推進を図った。市町村合併は全国的に急速に進行し、全国では二十八年の促進法制定時に九、八六八市町村であったものが三年後に三、九七五市町村になった。愛知県では一三市八三町一二一村、合計二一七市町村が町村合併促進法の期限であった三十一年九月末までに、二一市五七町三三村、合計一一一市町村に減少した。
この合併は法律では弱小町村を合併して、適正規模の町村を造ることを目的としたが、実際は当時の商工業の発展と都市化の進行によって、町村が市に合併するものや、町村が合併をして市制を施行するというケースが多かった。時には山村僻地まで市域に編入されるような場合もあったが、山村地方の小町村はかえって合併ができずとり残された。自立困難な貧弱町村として残ったものは、人口の減少も伴い、過疎化問題を招来する場合もあった。
一方、大都市と周辺町村との合併は、府県との間に対立を起こす契機ともなった。
大都市制度の問題
大都市が府県の中において占める地位は他の市町村とはちがって、人口においても経済力においても格段に大きい。そして、大都市は府県の政治、経済、文化の中心地でもある。
大都市と府県の関係をどのように定めるかは、明治二十二年の市制、町村制を施行したときからの問題であった。当時東京、大阪、京都の三市は、大都市として特例を設けていたが、大正期に入って、名古屋、神戸、横浜も人口が増加した。この六大都市が一致して、大正八年に府県から独立し、特別市制を布くことを申し合わせ、特別市制促進運動を起こした。昭和四年十一月、民政党の浜口内閣は大都市制度調査会を設置し、関係県にも意見を求めた。関係府県もこの問題について調査研究を行って答申した。当時は知事は官選で、府県も国の行政区域としての性格が強かった関係もあって、答申は必ずしも特別市制に反対ではなかったが、浜口内閣の更迭によって、特別市制法案は成立しなかった。その後も、特別市制施行の法案が議員提案で国会に提出されたことがあったが、衆議院は通っても貴族院が反対し、成立に至らなかった。その後戦時体制が強まり、国家統制が強化されて、特別市制問題は立消えの形となった。東京については、十八年には首都行政を強化するために東京府と東京市を合併し、一体にして都政を実施した。
戦後、地方自治法が制定された時に、特別市制の章を設けて、人口五〇万以上の市は住民投票によって、特別市をつくることができると規定した。大阪・京都・神戸・横浜・名古屋の五大都市がこれに該当した。五大市は特別市制を施行し、府県から独立、府県と同格の自治体として、その市域内の税収及び行政事務を保持するために、その実現の運動を起こした。
五大府県はこれに反対した。戦後の完全自治体となった府県から大都市が独立することは、事実上府県を分割することである。その中心である市域が府県から独立すれば、ちょうど饅頭(まんじゅう)のあんこを取り去って皮だけ残るようなものである。行政事務においても財政においても、地方公共団体としての成立は困難となるというのがその理由であった。そして、五大府県と五大市がそれぞれ中央政府やGHQに対し運動した。その結果、二十二年十二月地方自治法の中に特別市制指定のためには、その府県全域の住民投票を必要とすると規定された。そのため、当時は五大市の人口はいずれもその府県の人口の過半数に達していなかったので、特別市制は実現できなかった。
しかし、その後も五大市は共同して、大都市の特例を強化する運動を続け、五府県も共同してその対策を考えるなど、その対立は続いた。
講和条約の発効後においては、地方制度の見直し改革においても、大都市は特別市制の実現をめざして運動を続けた。二十八年に地方制度調査会は「差し当たっては事務及び財源の配分によって大都市の運営をはかる」と答申し、民生、衛生等の事務を大都市に移譲することが決められた。また、自治体警察の廃止については、五大市は大都市の自治体警察の残存を主張したが、二十九年の警察法の実施により大都市警察も府県警察に統合された。
戦後の占領軍の行った改革は功罪いろいろあるが、その中で我が国の実情を無視した改革の最たるものは、警察制度を解体して、各市と主要な町村に自治体警察を置き、その市町村の公安委員会が管理運営するという制度であった。アメリカのような地区の保安官から地方警察が発達した警察制度でも、近代国家体制としては治安上問題が多く、連邦警察が強化されてきている。我が国のように国家警察中心に発達した警察を解体して、警察行政の伝統も経験もない市町村に、それぞれ独立の自治体警察を設け、国家地方警察は自治体警察を置く力のない山村の地域や貧弱町村だけを管轄し、この国家地方警察は自治体警察に対して何の権限もない。これでは、治安上も警察官の人事上もいろいろと支障が多い。
占領行政下でも、自治体警察を維持することができないため、廃止する市町村があったが、講和条約発効後はほとんどの市町村が自治体警察を廃止して、府県警察に統合した。そして、大都市警察も二十九年の警察法で府県警察に統合したのである。愛知県では、この自治体警察の統合については、当時愛知県警察隊長、県警本部長として、三十九年から四十四年まで、警察の人事としては異例の長期にわたって在任した小倉謙氏が、桑原知事の後援を得て、腰を据えて統合に当たったため、きわめて円滑にその統合を完了することができた。
名古屋市と周辺町村の合併問題
前に述べたように、二十九年に町村合併促進法が実施されたが、大都市はこの機会に周辺の町村を合併して、その区域を広めようとした。これに対して、五大府県側は、大都市の拡大は特別市制問題にも関連があるので、合併に反対の空気が強かった。特に、大阪府ではそれが強かった。
名古屋市は、以前から周辺一八市町村と親睦団体として名隣会を作っていたが、この名隣会加盟の一八町村と合併計画を進めた。一方、県の町村合併審議会では県下の市町村の合併案を作っていたが、そこでは大都市の過大化を防止するという方針で、名古屋市と周辺町村の合併に反対の案を作るとともに、「大都市周辺市町村整備促進条例」を制定し、大都市周辺の町村の育成整備を図ることとした。そして、特別市制の問題もからんで、県市の対立がしだいに激しくなり、周辺の町村内でも賛成、反対の両派に分れて対立するようになった。
二十九年十月から十一月にかけて、名古屋市周辺の海部郡の飛島・十四山・南陽・富田、西春日井郡の山田・楠及び愛知郡の天白・猪高・鳴海・有松・豊明の一一町村が名古屋市との合併を議決した。これを受けて名古屋市議会も一一町村の編入合併を議決して、合併の申請書を知事に提出した。
県では町村合併審議会で審査の上、県議会で、天白・猪高二村の合併を承認、山田・楠の二村の合併は保留し、その他の町村の合併は不適合と決議した・
名古屋市側はこれを不服とし、合併を認められた猪高・天白二村と、その後住民投票で合併反対を議決した豊明を除いた八町村の合併について、総理大臣に対し審査請求を提出した。
このようにして、戦後の特別市制問題以来対立が続いた県市の間では、町村合併を機会に正面から衝突する形となった。その上、二十七年の名古屋市長選で、革新政党から推された小林橘川氏が市長となり、政治的な対立もあって、県市の間は円滑を欠いた。巷間では、県庁と市役所は塀一重の隣同志だが、その間は東京より遠い、などといわれた。
地 方 計 画
特定地域の開発計画の進行に伴って、県全体の総合開発計画策定のための調査研究も進められていた。愛知県のように、大都市名古屋を中心に産業経済が発達している地域の計画は、その発展に対応して、道路・鉄道等の交通計画を立てることが必要である。特に、愛知県の将来の発展の重点は、名古屋港の整備と臨海工業地帯の建設を進め、これを中心にした産業配置の計画に重点が置かれなければならない。また、愛知用水や豊川用水の建設は、下流の農業用水はもちろん、上水道、工業用水の利用を一体に考えなければならない。それによって、大都市を中心に中小都市及び農村の調和のとれた発展が図られるのである。こうした点に立って、広域的な計画を考えると、国土計画法の天然資源開発中心の考え方と都市本位の都市計画を総合した、新しい理論と手法による計画が必要であった。
そして、広域的な地域計画は行政区域に捉われず、地域の立地条件と産業経済の発展を考えて、計画を立てなければならない。こうした時に、県と名古屋市が対立していては将来のためにならないし、行政区域は地域の発展に対応して改めて行けばよいので、何よりも県市が協力して、地域の発展のための計画をつくることが肝要であると思われた。
桑原知事はかねてから名古屋市の合併問題を解決し、県市の協力体制を進めることを考えておられたが、二十八年にイギリス、フランス等の西欧諸国を視察して帰国され、西欧で進められている大ロンドン計画や、パリ首都圏計画等のリージョナル・プランについて話をされた。そして、私に吉川末次郎著『地方行政の理論と実際』等の資料を渡され、リージョナル・プランニングについての研究を指示された。それらを参考に、総合開発計画を一歩進めてリージョナル・プランニングの理論をとり入れ、愛知県地方計画を作成するための調査研究を進めた。地方計画という言葉は吉川末次郎博士がリージョナル・プランニングを訳されたものを用いたものの、その方法や内容は愛知県独自の計画である。
地方計画の作成については、地元をはじめ東西の各大学や研究調査機関の諸先生方のご協力を得て、計画作成の準備を進めたが、その計画の具体的方法については、当時国立国会図書館の専門調査員(後に調査及び立法考査局長)の山越道三氏の指導を受けた。山越先生は戦前は企画院で物資動員計画の作成に従事された経験もあり、戦後は国土計画協会の役員も兼ねておられた。一方、栃木県、富山県で総合開発計画の作成について指導された経験も持っておられた。その指導によって、まず計画作成の基本要綱や作成要領を作成するとともに、地方計画の作成のための基本調査を進めた。
愛知県地方計画協議会――丸栄ホテル (昭31.12.5) |
一方、名古屋市とも交渉を続けた、そして前に述べたように、三十年八月、名古屋市周辺町村合併問題について、自治庁長官、知事、市長の三者会談で、知事から地方計画の構想を提唱、これに基づき合併問題を大局的見地に立って処理することの諒解が成立した。
計画作成のための知事の諮問機関として、東西及び地元の大学等の学者、専門家の学識経験者に、県及び名古屋市の議会の代表、行政機関の代表、名古屋市以外の市町村の代表者等四〇名からなる愛知県地方計画協議会が、三十一年十二月に発足した。
地方計画協議会は計画委員会、及び行政委員会に分かれて計画を立案審議し、総合開発部門は三十三年四月に作成された。また、これを基礎として作成された行政合理化計画は三十三年十二月に決定された。
地方計画書は、総合・水政・交通・商工・農業・文化厚生の六部門に、行政合理化計画を加えて全部で七巻、三、六〇〇頁の膨大なものである。その詳細については、計画書又は『地方計画概要』『愛知県昭和史』などにそれぞれ記載されているので、詳しくはそれらに譲るが、この地方計画の主要な点を述べると次のようである。
第一、計画の作成に当たっては、現況の調査に重点を置き、できるだけ正確な資料に基づいて科学的に調査し、各部門に現況の部を設け、この現況に基づいて客観的に将来の発展計画をつくった。計画は将来の理想と見通しが必要であるが、それはどこまでも現況を明確に把握し、その基礎に立ったものでなければならない。
この現況調査においては、種々の問題について、専門家の意見を徴し、あるいは委託研究等も行ったが、特に勝れた調査としては、都市圏調査、経済成長率の推計、産業関連分析、工業構造及び産業立地調査等がある。
第二、地方計画は愛知県の計画であるが、愛知県は関東・関西の両経済圏の中間にあって、新しい産業・経済・文化の中枢として発展しなければならない。そのためには、中部経済圏の中心としての愛知県を考えることが必要であるとして、中部経済圏を構想し、これを背景として愛知県計画を策定した。この考え方が後に中部圏開発整備計画に発展するのである。
第三、計画は現況分析に基づいて、まず将来の総人口、労働力人口、及び雇用等を過去の実績から推計し、一方では生産所得、分配所得、支出県民所得等の計画をつくり、さらにそれを地域別に調査し、目標年次の人口及び所得計画を作成した。そして、県の総人口は昭和三十年の三七六万九千人が昭和四十年には四四一万三千人となるとした。生産所得は三十年度の三、五二二億円から四十年度には七、二九三億円と計画した。上昇率は二〇七・四%と推計した。この人口、雇用、所得計画を実現する土地利用及び産業計画を作成し、さらに必要な交通・水政の諸計画及び文化厚生計画を具体的に作成した。
第四、大都市名古屋は中部圏の中心であり、愛知県の首都として、産業、経済、文化の中心としての地位を占め、一方名古屋港は中部の門戸であって、将来はその周辺に臨海工業地帯を造成開発して重化学工業の基地とし、その後背地に機械、車輌、電気機器等の重工業を発展させ、工業構造の高度化を図るとともに、従来の陶磁器、織物、紡績、雑貨等の軽工業を整合的に成長させ、大都市、中小都市及び農村を調和的に発展させるために県土利用計画を作成した。
第五、地方計画作成の最大の目的である行政合理化計画は最も重要で、かつ、困難な問題であった。これは第一回の地方計画だけにあって、その後の新地方計画や第三次地方計画には行政計画は作られていない。愛知県地方計画独特のもので、全国のこの種の計画にも例のないものである。この作成については、山越道三氏や東大の田中二郎、京大の長浜政寿教授等のご協力を受け、事務的には、企画課と地方課が協力してその作成を進めた。
まず、戦後の地方行政制度の性格と将来の方向に重点を置いて計画を樹立し、県を中心とする広域行政、大都市行政、及び市町村行政の三つに分けて計画を作成した。広域行政については、当時一部で考えられていた道州制には反対で、県は自治体とし、地方自治体は県と市町村を基本として、県は広域行政体とした。そして、愛知県を中心に岐阜、三重と自主的に協力体制を進めることによって、将来三県の合併を期待する方向で構想している。
名古屋市については、大都市として他の市町村とは特別の地位をもつが、愛知県さらには中部圏の経済、文化の中心であって、県から独立すべきではなく、県の首都として性格づけ、都市地域の発展に応じ、必要な市域の拡大や、隣接市町の合併を認めるとともに、事務の委譲によって大都市として特色のある行政を行うという方向で計画した。
特に苦心したのは、第二節の区域の記述であった。当時県の一部には、前に述べたように名古屋市合併反対の意見も強く、一方、名古屋市の側からは合併を認めなければ地方計画から脱退するという空気も伝えられていた。表現によっては、地方計画の成否も、県市の関係の将来も決定されるという地方計画の要(かなめ)であった。
私は山田地方課長と案文を数次にわたって練り直し、東京で桑原知事、新居善太郎行政合理化委員長、山越道三総合部会長にお集まり願って、慎重に検討していただいて、案文を作成した。そして、これを行政合理化委員会の席上、新居委員長から提示し、審議の上満場一致承認された。僅か一頁の文案であるが、地方計画の焦点ともいうべきものであった。
こうして行政合理化計画が決定し、総合開発計画と合わせて、地方計画が協議会で決定された。
桑原知事は地方計画を県政の憲法として、大愛知の建設を進めると宣言された。その結果、長年の県と名古屋市の対立も解消されるとともに、県市及び地元産業界の協力体制によって、産業構造の高度化が図られ、愛知県は飛躍的発展の時代に入ることになった。
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地方計画の重要な課題として、名古屋港を整備するとともに、名古屋市南部の沿岸を埋め立て造成を行って、ここに重化学工業の基地を建設し、産業構造の高度化を図ることを計画した。しかし、当時は国において三十五年に作成された所得倍増計画の太平洋ベルト地帯の重化学工業建設の構想が具体的に作成される前のことであり、将来の理想としての計画で、具体的な事業計画があった訳ではなかった。
こうした時に、地方計画に対応するように、名古屋財界は中部経済連合会が中心になって、富士製鉄の進出を求めた。そして富士製鉄は伊勢湾沿岸に銑鋼一貫の製鉄所を建設するために、地元財界と協力して、東海製鉄株式会社を名古屋市に設立した。
製鉄所の建設候補地としては、はじめ四か所の調査を行ったが、結局、名古屋南部と四日市の二か所を候補地とした。富士製鉄は、内川悟常務、井上泰三建設部長以下の技術陣を派遣し、現地調査団をつくり、工場立地の調査を進めるとともに、地元との交渉に当たった。
愛知県議会も三重県議会もおのおのその誘致を議決し、県を挙げてその誘致に乗り出し、新聞は両県の誘致合戦と書きたてた。
愛知県では、知事の特命によって企画課が交渉の窓口となり、私はその責任者として、県や名古屋港管理組合の関係者と協力して、調査と交渉に当たった。
私は、こうした大事業は政治的なかけ引きや宣伝によって決まるものではなく、科学的調査と経済的合理性によって調査決定すべきものであるとの信念に立って、できるだけ精確な調査資料を提供するとともに、誠意をもって交渉に当たった。
名古屋南部の知多半島の沿岸は、港湾としての条件も、製鉄所建設のための埋立て条件や地盤及び関連産業の関係からいっても、立地条件は四日市に比して遥かに勝っていたが、建設決定を困難にしたのは、工業用水確保の問題であった。
名古屋南部の知多半島沿岸は、地下水はほとんどなく、近くに取水できる河川もない。工業用水は当時工事が進められていた愛知用水から取水する以外に供給の道がなかった。
愛知用水は当初農業用水として計画され、国土総合開発法の特定地域の根幹事業とするため、上水道、工業用水を合わせ計画することが必要となった。県営で水道事業を行うことが決定された。上水道は、一応知多半島を主に需要量を定め事業計画を立てることができたが、工業用水は、名古屋市や名古屋南部の工場関係方面に交渉しても、どこも具体的な需要見込みがなく相手にされない。やむなく、工業用水は名目だけの毎秒約一トンを名古屋南部臨海及び内陸部に供給するペーパープランをつくり、上水道、工業用水両方で、年間四、五〇〇万トンを供給することを計画し、それに基づいて愛知用水事業の資金計画や工事計画が決定されたのであった。
東海製鉄はその計画を実施するには、日量二五万トン(毎秒三トン)という大量の工業用水を必要とし、供給の見通しが確定できなければ、工場立地は不可能であった。東海製鉄の建設調査団は八幡製鉄所や広畑製鉄所で工業用水の確保に苦労した経緯をあげ、水は製鉄所の生命であるとして、その問題の解決を求めてきた。
佐布里調整池の通水式 |
われわれは木曽川の流量計算や、愛知用水の農業用水需要量、水路容量等を精密に計算し、知多半島の北部に調整池を建設することによって、既定の農業用水路を利用し、将来必要な工業用水を十分供給できる計画を作り、これを提出して交渉した。両者協同で木曽川の水量や、当時工事中の牧尾ダムや水路の工事現場等も数回調査視察を行った。そして、工業用水の供給計画につき、愛知用水公団や農林省当局とも交渉し、諒解を求めた。
公団当局に対してその裏付けの一札を求めたが、公団の技術陣としては、将来供給が可能であることは技術的には認めても、工事中の計画変更は、農林省や世界銀行、及び米国と技術指導契約をしているエリックフロア社との関係もあって、役所としてこれを認めたり、諒解するという一札を書くことはむずかしいことであった。最後は当時の農地局長伊東正義氏に体当りで事情を説明し、懇請した。伊東局長は熱心に事情を聞いて大局から判断し、県の責任で工業用水供給を東海製鉄と協定すること、及び農林省・公団も将来愛知用水の計画変更に協力することを諒解された。
最大の問題である工業用水の問題の見通しがつき、その他の条件についても協議が成立した結果、三十四年六月愛知県知事と東海製鉄株式会社社長との間に覚書の調印に漕ぎつけることができた。
私はこの誘致の覚書が調印された後、間もなく、七月に生産性本部の工業用水調査団の一員としてアメリカの視察に行き、約一か月間視察をして来た。この間に、東海製鉄誘致協定案が県議会で審議され、いろいろ野党方面から問題が出て、関係者は苦労されたようだが、協定は議決されて正式に調印された。
私はアメリカの工業用水や総合開発について視察した機会に、『アメリカと水資源』を書いて出版した。この中に、木曽川の水資源とその開発利用の将来の方向について構想を書いておいた。
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一 三 号 台 風
戦時中から戦後にかけて、山林は乱伐された。その一方で、河川や海岸の堤防の管理や改修には手が回らなかった。このため、毎年のように各地で台風や集中豪雨による災害が発生した。愛知県でも昭和十九年十二月の東南海地震、二十年一月の三河地震によって、海岸や河川の堤防が損害を受けたが、十分の復旧がされていなかった。こうした時に、三河地方が二十八年九月二十五日、一三号台風の襲来を受けた。
一三号台風は中級の台風であったが、上陸時がちょうど秋分の大潮のときと重なったために、三河湾沿岸の渥美半島から豊橋、蒲郡、幡豆、碧海及び知多半島の東岸一帯の海岸堤防と、これに続く河川堤が破壊され、大きな被害を蒙った。特に、豊橋の神野新田と幡豆郡の平坂をはじめ、干拓地が海水の浸入を受けて大きな被害を受けた。その中でも、豊橋の神野新田は一、〇〇〇ヘクタールの広大な地域が海面となり、堤防の破壊部が、干潮、満潮の潮流の出入によって、大きな澪(みお)となってその締め切りは困難をきわめた。
県は災害救助や、災害復旧対策を進める一方、同じ台風の被害を受けた三重県、滋賀県、静岡県等と協力し、中央政府に援助を求めるため、当時九段上にあった全国知事会館の一室に共同の災害対策事務局を設けた。愛知県が一番被害が大きいので、私は事務局長として、各県の係員とともに東京に駐在して、各省に働きかけることになった。
当時は、昭和二十六年に「公共土木施設災害復旧事業国庫負担法」が制定されて、これに基づいて、二十八年の西日本各地の豪雨災害には、特別立法によって高額補助が行われた。一三号台風の海岸堤防の復旧にも特別立法によって高額補助を行うとともに、海岸堤防の復旧は改良復旧を行うための特別立法が必要であった。
当時の災害復旧は原形復旧が原則であったが、海岸堤防は原形復旧では同じ程度の高潮が来れば直ちに破壊されるので、少なくとも一三号台風程度の高潮に耐える改良復旧を行い、これに対する高額補助を受けるための立法措置が必要であると思った。建設省、大蔵省等の関係方面に交渉したが、改良復旧は前例がないとして取り上げられなかった。しかし、海岸堤防の改良復旧は、その災害の性質からどうしても必要であると考えた。三重県とともに関係国会議員と協議し、議員立法によってこれを実現することとした。法案は衆議院法制局で立案してもらうことになり、その援助によって議員提案で十一月の臨時国会に提出した。
13号台風被災堤防の復旧――幡豆郡寺津町 (昭30.6.30) |
当時は国の財政も困難な時であり、大蔵省方面の強い反対もあって審議は難航したが、臨時議会の最終日の夜に両院を通過し成立することができた。この法律に基づいて復旧も順調に進み、三十五年には復旧が完成する予定であった。
こうした時に、三十四年九月に伊勢湾台風が襲来し、幸か不幸か、この一三号台風は災害対策の予行演習のようなことになった。
伊勢湾台風の襲来
昭和三十四年九月二十六日の伊勢湾台風は、超大型台風となって、二十六日一八時過ぎ潮の岬西方一六キロの地点に上陸し、奈良県中央部を通り、名古屋市の西方約三〇キロの線を伊勢湾に沿う形で北上する最悪のコースであった。名古屋気象台で瞬間風速毎秒四五・七メートルを記録する超大型の暴風雨が、折からの大潮の満潮と重なって襲来し、名古屋港の潮位は東京湾中等潮位基準(T・P)を越す三・八九メートルの高潮となった。
このため、名古屋南部から海部郡一帯の海岸堤防は全面的に破壊され、海水は激流となって内陸に侵入し、名古屋市南部の内田橋の南から、津島市の南半に至る名古屋市及び海部郡の一帯は全部海面下に没した。その上名古屋港背後の貯木場にあった多量の木材は、激流に乗って内陸部に襲来し、未曽有の大災害を惹起した。
伊勢湾台風の被害――海部郡十四山村付近 (昭34.9.27) |
伊勢湾台風の被害実態や応急救助、海岸堤防の仮締切りや、復興事業対策については、『災害復興計画書』『災害復興誌』『愛知県昭和史』等に詳細に記録され、また、県政映画も作成されているので、詳細はそれらに譲るが、台風災害の教訓や、復興について特に感じたことを述べることにする。
伊勢湾台風の被害は愛知県だけで、死者三、一六八人、行方不明九二人、負傷者五九、〇四五人、罹災者七九三、四〇一名、住家の被害は全半壊一二〇、三八三戸、流出三、一九四戸、床上浸水五三、五六〇戸、床下浸水六二、八三一戸、被害総額三、二二四億円、内公共施設被害六五三億円という莫大な数字で、関東大震災と第二次大戦の空襲被害を除けば、我が国の災害史上最大の被害であった。
名古屋南部から海部郡南部の二三、一一九ヘクタールの地域が全部海面下に没した。これは徳川時代以来三百余年輪中堤を築きながら、営々と干拓によって造成した田畑も、家屋も、その他も総て海中に没したことを意味する。しかも、澪(みお)が日毎に深くなって、海岸堤防の締切は困難になる。海抜ゼロメートル地帯の災害対策は実に困難をきわめた。
応急対策としては、住民の避難や、学童を後背地の学校等に収容して宿泊と授業を行うとともに、被災地域への食糧、水等の救助物資の配給を急務とした。しかも被災地では煮焼きが一切できない。
この被災地域の海部郡南部から名古屋南部は、国道一号線をはじめ国鉄関西線、近鉄線などの主要交通線が集中しているが、これらが一切海中に没して通行できない。僅かに船による交通しかできないが、その船も小さな底の浅い船でなければ駄目である。愛知県と三重県との交通は、名古屋港と四日市港を結ぶ航路と、陸路は木曽川堤防を利用し、尾西地方を大回りして、伊勢大橋、尾張大橋を渡るしかない。
この地方がゼロメーター地帯で、過去においても破堤によって災害を受けた歴史があるのに、国道、鉄道のような幹線交通路をつくるとき、どうして歴史と立地条件を考え建設しなかったかを思っても後の祭りである。地域の基本的事業を行う時には、立地を総合的に考えることを忘れてはならないと痛感した。
災害復旧のためには、何よりも交通線の早急の確保が必要で、このために水没した国道一号線の上にドラム罐を並べて、水上に応急道路が建設された。
何といっても最大の問題は、海岸堤防決壊部の仮締切りの工事である。このために、全国から自衛隊をはじめ土木技術者、土木業者の応援を求めるとともに、地元の消防団をはじめ、学生生徒等関係各方面の応援を得て、正に一大作戦が展開された。
災 害 復 興
この大災害に対しては、国、県、を挙げての対策が進められたが、特に桑原知事は台風の翌日には直ちに自衛隊のヘリコプターで空から被災地域を視察して、災害の実状を把握し、庁内の災害対策本部関係者を召集して、各部に対して応急救助及び被害対策の大方針を指示するとともに、県民に対し「禍を転じて福となす」と言って、復興に対する勇気を鼓舞された。
そして、急遽上京し、政府要路に対して災害の大要を報告するとともに、災害激甚地の指定を直ちに発動し、国を挙げての救助と復興を進めるように要請した。私は知事にお供して上京し、知事が政府の上層部に対し手を打たれるのに対し、一三号台風の経験から各省の実務家に対し、災害の実状、なかんずく海岸堤防の破壊によるゼロメートル地帯の仮締切りの困難と民心の不安の実情を説明し、非常事態だから費用や資材、労力を惜しまず投入しなければならぬことを訴えた。その頃、大蔵省の公共事業担当主計官(後の企画庁次官)で、鼻っ柱の強いことで有名な宮崎仁氏に会って、「大蔵省は後で仮締切りに金を使い過ぎたなどと言わないように」と言うと、「君は始めから喧嘩に来たのか」と言う。そこで「いや喧嘩ではなくて戦争だ。関東大震災のように戒厳令を発動することなしに、この始末ができれば成功だと思っている。あんたもまず現地を見て下さい」と言うと、「よし、分った」と協力してくれ、その後現在に至るまで懇意に願っている。
政府は重大な事態に対処するために、中部日本災害対策本部を愛知県庁に設け、益谷副総理を本部長に、石原幹一郎自治庁長官を副本部長として名古屋に常駐させ、各省それぞれ名古屋に責任者を派遣して、毎日定時に対策会議を開いて情勢を聴取するとともに、具体的に対策を指示した。
この益谷、石原両氏の名コンビは、日露戦争の大山司令官と児玉総参謀長を思わせる、実に妙を得た組合わせであると思われた。毎日の対策会議の様子を見ていると、益谷本部長は上席に坐って悠然と会議の議長をしているが、めったに発言することはない。官僚出身の石原副本部長が議事を進め、カミソリのような鋭い切れ味で要点を指摘し、その対策を一つ一つぴしぴしと決定して行かれ、抜群の能力を発揮される。各省の担当官や県の部長も遠慮なく叱り飛ばされる。特に、当面の責任者の県の大谷土木部長などは気の毒で見ていられないようであった。土木部長は部屋に帰れば、次から次と地元の代表者の陳情で、現地の視察も部下の報告も十分聴く暇もないような状況である。建設省の代表は中部地方建設局長の高野務氏と山内一郎参事官(現参議院議員)で、どちらも太っ腹で、落着いておられたので助かった。
こうした中で、地元の責任者の桑原知事は中央各省と地元の間に立って、泰然として大局を見て着々と手を打って行かれる。中央の代表には礼を尽くし、現場の者や部下の部課長に対しても怒りを発するとか、困惑の感情を示されることもなく、いたわりながら指導し、その及ばぬところは自分でいつの間にか処理されている。正に大軍の策戦を指揮している名将のようだと陰ながら感嘆していた。
このようにして、大災害の中で最も困難な、澪(みお)留めの大作戦も、全国の自衛隊や消防団はじめ各方面の一致協力によって、十一月二十一日知事が現地に臨んで最後の石を投じて成功した。全部の決壊口が塞がれ、排水ポンプが活動して、全地域の排水が順調に行われた。年末には大部分の罹災者も自宅に帰ることができた。
応急対策が一段落する頃から、企画課が中心になって大急ぎで復旧事業計画を作成することになった。地方計画の経験によって学者や関係各省はじめ各方面の代表者の協力を得て、災害復興対策協議会をつくって復興計画を作成した。期間三年、一、一八一億円の愛知県災害復旧計画を三十五年三月二十八日審議決定した。そして、東京で中央各省の代表に説明し、実施を要請した。
復旧した鍋田海岸堤防――海部郡弥富町 (昭37.4.15) |
中央各省はこの復興計画の方向に沿って、それぞれ実施計画をつくり、予算化を行って事業を進めた。特に、海岸堤防の復興には三十四年十月の国会で「高潮対策事業に関する特別措置法」が制定され、海岸堤防は完全な改良復旧とし、堤防は三面コンクリート固めで、伊勢湾台風級の高潮にも十分耐える設計となった。そして、急速に工事が進められ、三十五年台風期までに原形復旧を、三十七年台風期までに国の直轄工事を完成し、三十八年台風期までに県営分の工事を完了する計画で工事が進められた。
工事は順調に進み、愛知県の全海岸線はコンクリートの堤防ができ、正に文字通り白亜の長城によって防衛された。一三号台風から僅か六年であるが、この六年間における日本の経済、財政力の増強と、建設技術の進歩は、実に目覚ましいものがあった。
臨海工業地帯の造成
この復興に関連しての臨海工業地帯造成について述べると、東海製鉄誘致が決定し、その協定が成立して間もなく、伊勢湾台風の襲来によって、名古屋南部をはじめ臨海部の工場はほとんど破壊や浸水によって水没し、操業不能となった。この状態を見て、一部の新聞記者からは、せっかく東海製鉄を誘致しても臨海工業地帯は災害に弱く駄目ではないかという声も聞かれた。
私はこれに対し、現在の名古屋南部の工場はほとんど昔の干拓地にそのまま建設され、水面以下に立地されている。したがって、海岸堤防が破壊されると、それが復旧するまで水中にあって操業できないが、これから建設を予定している臨海工業地帯は、名古屋港中等潮位基準プラス四・八メートルを標準として、航路の浚渫(しゅんせつ)等の土砂で埋め立てるので、万一高潮をかぶっても直ぐ排水されて、いつまでも水中に没しているということは絶対にない。その例は住友金属の工場は大阪で室戸台風による浸水の経験から、工場建設に際し、嵩(かさ)上げ土盛をした上に建設したので、台風後間もなく操業をしている、と説明した。
また、伊勢湾台風の浸水を見て、なぜ早く海岸堤防の強化を行い、対策を立てておかなかったのか、行政の怠慢ではないかという批判もあった。われわれは、一三号台風の神野新田などの例によって、海部郡のゼロメートル地帯の海岸堤防の危険と強化の重要性は十分知っており、もし一三号台風が伊勢湾に来たらという危惧も持っていた。
ゼロメートル地帯の調査を名大の井関弘太郎教授等に依頼しての地図も作成されていた。そして、県としてできるだけ海岸の強化を行っていたが、当時の国の財政や公共事業の性格から、一三号台風の復興に手一杯で、伊勢湾海岸の根本対策などを実施できる状況ではない。その危険を警告しても、いたずらに不安と混乱を起こすだけである。そこが学者、評論家と行政の違うところで、行政は批判に対しては謙虚に受け止め、平常においても、非常時の大問題を常に考慮し、対策を考えておくことは必要だが、実行の可能と不可能を十分判断し、対処しなければならない。行政というものはいたずらに先見の明を誇ることではなく、いかに効果的に処理するかということである。
こうした県政の大問題について、桑原知事が意見を表明される時と所の判断の的確さには、教えられるところが多かった。情勢が熟して自らの判断を示す必要があるまでは、なかなか意見を述べられない。時期が来るまでは部下に委せて、特に指示を求めなければ黙っておられる。時には知っておられるのかと思うようなこともある。
司馬遼太郎の『城塞』という小説の中で、徳川家康の股肱の家来本多平八郎が太閤秀吉に答えて「わが主人は年若きころより、何事につけてもはきとせしことを申さざる人にて、近頃になって理由がわかり申してござるが、総じて目上の者が目下の者を見るとき、その身動きや心動きがよく分かるものであるが、目上の者としてはそのわかるに乗じて目下を責め使えば、目下の者は頭の出しようもござりませぬ。それゆえはきと申さんだと思います」と述べている。私なども年を重ねて、ようやくそれが理解できるようになった。
総務部長と県財政
私は伊勢湾台風の応急対策が一段落し、災害復旧計画が三月に策定された後、三十五年四月総務部長に任命された。当時は企画事務と人事広報はそれぞれ知事直轄の参事二人で分担し、総務部長は財政を主として担当した。各部の事務や事業を予算編成とその執行を通じて統括している県政の事務長のような立場である。
私はこれまで財政の事務を担当した経験はなかったが、長年総務部長として財政と人事を掌握し、県政の隅々まで精通している実力者の鈴木慶太郎副知事がおり、財政の主管課長は俊敏で財政に明るい中谷義明庶務課長(前知事)がやっていた。庶務課員は予算や財務については練達の人々が揃っているので、予算の編成事務や財政の日常事務については心配ないので、私は専ら地方計画と予算との関係から新しい行政と財政のあり方について考えた。
これまでは、国においても地方公共団体においても、予算は単年度主義で各部において予算要求をし、財政当局は年度収入の枠内においてこれを査定し、年度内の収支の均衡を第一に考えて財政の運営を行っていた。しかし、戦後は公共事業や教育・福祉等の事業が増大するとともに、産業の発展のための施策も行政との関係が深くなってきた。したがって、行政も財政も長期的に計画性をもって行わなければならない。そのために、県政の基本として地方計画も策定されたので、行財政を長期的計画に対応して進めるとともに、事業は経済効果を考えて経営の概念をとり入れなければならないと思った。
当面は、第一に伊勢湾台風の災害復興に全力を傾注しなければならなかった。伊勢湾台風は未曽有の大災害で、その復興には莫大な事業費を要し、さらに災害救助や各種の災害対策費を支出しなければならない。一方では、産業は災害によって大きな打撃を受け、個人も災害による大きな損失を受けて、所得が減少しているので、三十五年度は税収の大減収が予想された。私が就任した時に成立していた予算は災害対策費中心に組まれていて、一般経費は極力緊縮して編成されていた。
これは当然のことで、県財政の危機が懸念されていた。しかし、実際に復旧事業を進めてみると、災害復旧費は特別措置法によって高率の国庫補助が行われ、さらに県費負担分については起債措置が十分に行われた。一方、産業界は当時の高度成長の波に乗って予想外に早く生産活動が進行するとともに、災害復旧を機会に技術革新が行われ、それに必要な資金の融資が潤沢にあった。各工場はどしどし新鋭機械を設備し、技術革新を実行した。その結果生産増強によって新しい税収増加もみられた。
こうした情勢に対応し、復旧事業は極力促進することとし、これに事業費を思い切って投入した。職員も災害対策事業中心に動員し、経常的事業は人員も経費も極力節減する方針をとった。特に、人員の増加を極力抑え、復興に要する技術者等は各府県から応援を求めた。各府県も災害の重大性を認識し、復興事業の勉強のため、快く応援の職員を派遣してくれたので、臨時復興事業による平常の人員増を抑えることができた。
このために、莫大な災害復興事業を実施しながらも、三十五年度と三十六年度は県の財政収支に相当の余剰金が見込まれた。そこで、この際思い切って将来に備えるために、財政調整積立金を設けることにし、県議会の議決を経て、両年度で五〇億円余の財政調整積立金を設けた。これについては、当時災害太りだとか、新規事業を起こすべきであるとかの批判もあったが、災害復興を財政上の心配なしに実施し、災害復興が完成した後にこの資金を活用して、桑原県政の目玉ともいうべき産業、文化、及び福祉のため思い切った大事業や施設を実現することができた。
このようにして、伊勢湾台風による災害復興も急速に進み、桑原知事が「禍を転じて福となす」と言われたように、伊勢湾沿岸には伊勢湾台風級の台風による高潮にも安全な、鉄筋コンクリート三面張りの海岸堤防が全面的に完成した。
また一方では、この災害に関連して一部損害を受けた愛知用水の工事も予定通り進行し、三十六年九月には通水した。また、名古屋南部の東海製鉄建設のための漁業補償も妥結し、三十五年二月には臨海工業地帯の造成に着工することができた。
しかし、財政の実務を担当し、予算を実際に編成するとなると、直接の地元との利害関係の調整や、本省方面との折衝など苦労の多い問題もあるが、何といっても総務部長としてむずかしいのは、県議会との折衝である。県議会では野党の反対質問に対する答弁の問題があるが、これは理論上の論争が多いし、それに当時は与党が絶対多数であるので、何とかそれなりの対応の方法もある。むしろむずかしいのは、与党方面の政治的折衝で、なかなか理屈通りに行かない。県議会には政治的実力者もおり、選挙区との関係もあって、自分には苦手の問題であり、桑原知事に心配をかけたこともあった。しかし、県政の表裏についていろいろと勉強し、政治と行政事務の関係について考えるよい機会でもあった。
総務部長を三年勤めて、伊勢湾台風の災害復旧も大体見通しがついた三十八年四月には、県の規定による定年に達したので退職した。
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副 知 事
四月末日でいったん定年退職したが、七月一日付で副知事に任用された。
副知事は青柳知事の時代は県議会議員から選任された政務副知事と事務職員から任命された事務副知事の二人制であった。桑原知事も一期目と二期目は副知事は二人制で、一人は議員出身の森副知事で、一人は総務部長から任用された水野副知事であった。しかし、国の場合と違って県政では政務、事務といっても実際は区別がむずかしく、各部長が取扱いに困ることもあった。桑原知事の三期目には鈴木慶太郎副知事一人となった。しかし、一人では事務量も多いし、補佐は二人がよいと考えられて二人制となった。どちらも総務部長から副知事に任用されたので、一応部で担任を分け、私は衛生、労働、農林、農地の四部と水道部を担当した。財政、人事、企画等は共管ということだが、鈴木副知事は先任の実力者であり、私は一歩下がって事務の補佐に徹するようにした。
県行政は総て知事の名で行われ、副知事はその補佐役で、対外的には知事の補助又は代理はするが、その名で事務を処理することはない。したがって、公印は知事と部長、課長にはあるが副知事にはない。そうした点からも副知事としては、知事の女房役に徹するとともに、部長達の仕事のやり易いように、部長の手におえない問題を目立たぬように処理し、知事の意向を部長達に連絡説明し、庁内の融和を図ることを第一と考えた。
特に、桑原知事は部下を批判されたり、部下の仕事について叱責されるということはなかった。また、必ずその地位にある者を地位において用い、特別の側近を用いるというようなことを絶対にされない。また、部下のやった仕事について自分は知らなかったとか、部下が悪いとか言われることはない。それだけに、副知事は各部の仕事のやり方について気をつけて手落ちのないように、部長達がいろいろの問題について腹蔵なく相談できるようにしなければならないと思った。
この頃には、伊勢湾台風の災害復興も順調に進み、我が国の経済は高度成長の時代に向かった。県の産業経済も急速に発展し、東海製鉄の誘致によって臨海工業地帯の造成も進み、重化学工業の発展とともに、内陸工業も進展に向かった。これに対応して、三十六年には地方計画を再検討して、新地方計画が作成された。そして、県勢は各方面において充実発展していった。
しかし、こうした急激の発展期においては、種々のむずかしい問題もまた発生するもので、それらを具体的に解決、処理して進まなければならなかった。この時代に苦労して処理しなければならなかった県政の重要問題について思い出を記すことにする。
愛知用水負担金と工業用水の水利権
愛知用水事業は前に述べたように、予定通り工事が進み、三十六年六月に通水した。工事は公団事業として、ダム及び幹線工事は愛知用水公団が執行し、支派線の工事は県が委託を受けて実施した。その経費は全部国において調達したが、その工事費は公共事業の原則によって県及び農民において一定の割合を負担し、償還しなければならない。しかし、具体的な各土地改良区を通じての農民の負担額は決定されていなかった。工事の完成後にこの負担額を決定し、納入を実行することはなかなかむずかしい問題であった。
愛知用水は当初主に食糧増産を目的として計画され、農地の受益面積は既耕地の用水補給及び新規開墾を合わせて、三三、〇〇〇ヘクタールとして計画されたが、実施計画では二三、〇〇〇ヘクタールと決定した。
しかし、その後名古屋周辺の都市化が急速に進み、受益地を辞退する土地が増加し、受益地が大幅に減少するようになった。一方農民の間には工事が完成した後に、国の支出した工事費を支払うことに難色を示すものも出た。中には既に国が支出した金に負担金を出す必要はないと放言するものもあった。各土地改良区の負担額を定め納入する額の話し合いはなかなか決まらなかった。しかし、世紀の大事業が完成し、効果が発生しているのに、その負担金を納めない訳にはいかない。何とかしてこの問題を解決しなければならなかった。
そのためには、まず各土地改良区の受益地を具体的に再調査して決定しなければならない。そして、反当り負担額は従来のままとし、受益地の減少による農地の負担分については、上水道及び工業用水の取水量の増加によって、水道で負担する方向で、農林省及び愛知用水公団と交渉した。一方、土地改良区を説得して、最終受益地面積を一五、〇〇〇ヘクタール、反当たり平均年負担額は二、二〇〇円として支払うことに決定して、農地の負担問題は解決した。
これらの経緯や詳細の数字は『愛知用水史』の中に記述してあるが、円満解決するまでには随分むずかしい問題もあり、農地関係者には苦労が多かった。この経験から、豊川用水については末端工事を実施する時に、受益地面積と負担金について土地改良区と協定しておいたので問題がなかった。
一方、上水道、工業用水については当初愛知用水の計画決定の時は、両方合わせて年取水量四、五〇〇万立方メートルと決定した。前に述べたように、工事着工後間もなく東海製鉄の建設が決定し、そのための工業用水だけで日量二五万立方メートル、毎秒で三立方メートル、年間で約九、一二五万立方メートルを増加供給しなければならないことになった。これを実現するには、第一に知多市の佐布里に約五〇〇万立方メートルの容量の調整池を建設するとともに、新たに毎秒三立方メートル取水のための水利権を取得しなければならない。
製 鉄 工 場(東海市) |
佐布里調整池の計画は東海製鉄誘致協定で決定していたが、地元との用地交渉が進まず着工できなかった。一方、水利権の変更も岐阜県との交渉が難航していた。私は副知事に就任すると、この二つの問題を解決することに全力を挙げた。水道部に椙本誠一部長を起用し、水道部の陣容を強化し、地元との用地補償を解決する一方、岐阜県、関西電力と交渉を進め、さらに建設省、農林省にも了解を求め、ようやく第一高炉の火入れを前に、三十九年九月水利権改訂について、岐阜県庁で愛知、岐阜両県知事、中部地方建設局長の三者の間で、工業用水毎秒三立方メートルを増加取水する覚書が調印の運びとなった。東海製鉄誘致決定以来五年間、この問題について真に身を削るような思いであった。
この工業用水の取水決定の成立により、東海製鉄は順調に操業することができ、南部臨海工業地帯の建設が進むとともに、一方では農地の減少による農民負担の不足額を工業用水によって肩代りすることができた。
愛知用水は前に記したように建設当時、上水道、工業用水合わせて年間四、五〇〇万立方メートル、毎秒約一・七立方メートルでスタートしたが、この毎秒三立方メートル取水増加の後も、四十三年三月に、毎秒三・八〇五立方メートル、四十七年七月、毎秒二・六一立方メートル追加取水が行われ、その他可児用水の転用毎秒〇・三立方メートルを加えると、総計毎秒一〇・四一五立方メートルという大量の上水道、工業用水を利用することになった。この大部分が工業用水の増加であることをみれば、愛知県の工業の発展と、それを支える愛知用水の効用の大きさが想像され、誠に感無量である。
この農民負担の問題も工業用水の取水増加の問題も、関係者の忍耐と誠心誠意の努力を重ねて、一歩一歩解決したものである。こうした利害関係の複雑な問題は、できないと捨てておいたり、一歩誤って関係者の対立が表面化したり、政治問題とからんだりすると、手がつけられなくなる。いつ解決したか分らぬように、水の流れる如く解決することが、水問題の扱い方であるとつくづく思う。孫子の兵法に「善く戦うものは勝ち易きに勝つものなり。故に善く戦う者の勝つや、知名もなく勇功もなし」とあるが、行政も同じであろう。
工業地帯の造成と発展
地方計画で計画した重化学工業の発展は、東海製鉄の建設が順調に進むに従って、これを中心に名古屋南部工業地帯の建設が進み、特殊鋼、化学、石油精製等の関連企業が進出した。さらに、名古屋港西部に木材港やコンテナー基地の建設が進み、名古屋港は工業港として急速に発展した。そして、現在では名古屋の貨物取扱量は日本一となった。
また、名古屋の発展に対応して、衣浦臨海工業地帯の造成も行われ、企業も順次進出を見るようになった。
臨海地帯の重化学工業が発展すると、内陸工業地帯の建設も進んできた。特に、自動車工業の発展が目覚しく、豊田市を中心に刈谷、岡崎を結ぶ地域に自動車関連工場が建設された。また、名神、東名、中央の高速道路の建設の進行に伴って、春日井、小牧などの尾張西北部における機械、金属工業等の発展も目覚ましく、従来の瀬戸地方の窯業、尾西地方の繊維工業等とともに、県下全地域に内陸工業が発展し、大企業、中小企業ともに、我が国経済の高度成長期に歩調を合わせて急速に発達した。
渡津漁協との漁業補償(豊橋臨海)調印(昭42.12.15) |
臨海工業地帯の造成については、名古屋港周辺地域は名古屋港管理組合が主体で、県が協力して建設を進め、衣浦臨海工業地帯は県が主体で漁業補償や造成を行った上で、企業に譲渡する方法をとったが、内陸工業地帯についても、豊田自動車工業の工場用地をはじめ、県の企業局が用地を買収し、造成した上で企業に売却する方法をとって、積極的・計画的に工業配置を行ったものが多かった。
この企業局が用地を取得して、造成の上企業に売却するということはむずかしい事業である。県の責任でこれを行うのであるから、原則として取得費と造成費を計算した原価主義で企業に売却するのである。売れ残りが出れば損失となるし、高くすれば儲けたと非難される。時価に比して安ければ、申込みが多くなって売却する企業の選定が困難になる。
公正にして利益も損失もないように、そして合理的な産業配置と企業の将来の発展を考えて分譲する。これは住宅地分譲などと異なって困難が多い。高度成長に対応して、産業の発展と工業配置を合理的に行って、地域の発展を図るため、この困難を排して実施されたが、関係者は大変な苦労であった。
名古屋を中心とする臨海工業地帯並びに衣浦臨海地帯の建設、及びその背後地の尾張、西三河の内陸工業地帯は、昭和四十年頃までにその骨格ができ上がり、これに必要な工業用水や上水道事業と道路等の基盤整備計画も進展した。しかし、東三河地域は一歩おくれた。豊川用水は愛知用水より早く着工され、総合開発計画として進められたが、初めは公共事業費で行われたために、工事の進行が遅々として進まず、愛知用水の竣工後、愛知用水公団の事業として引継がれて、はじめて急速に工事が進行し、四十三年に完成した。それだけに、愛知用水事業の経験を生かして、地域の実状に合わせ、地元との協力体制をつくりながら堅実に事業を進めたので、問題も少なかった。
しかし、事業の進行がおくれたためと、地域の産業発展の後進性等もあって、東三河港の整備及びそれに伴う臨海工業地帯の造成は、計画は出来ていたが実現がむずかしく、高度成長時代に乗りおくれる結果となった。東海道ベルト地帯の残された最大の工業地帯といわれながら、漁業補償の解決に手間どり、その建設はおくれた。
住民福祉と教育文化施設の建設
愛知県がんセンター |
産業の発展によって税収も年々増大し、県財政は豊かになった。伊勢湾台風の復興も完成したので、桑原知事のかねての理想である住民福祉と教育文化の向上のための諸施策が、着々と進められた。前に述べたように、財政調整積立金もあるので思い切った施策を進めることができた。
昭和四十年代に入ると、知事の構想によって後世に誇ることのできるような立派な福祉施設や文化施設が次々に建設された。主なものを挙げると、まず三十九年十二月には愛知県がんセンターが開設された。戦後は国民病といわれた結核については治療法が進歩し、問題でなくなった。そして、がん対策に医療の重点が移った。しかし、がんセンターについては多大の経費を要する。国立がんセンターがようやく発足したが、各県はなかなか本格的な施設はできなかった。私が総務部長の時に小川衛生部長の強い要請もあり、財政事務当局としては問題もあったが、最終的に知事査定で建設を決定した。そして、千種区の民生部所管の愛知学園を移転し、その跡に建設することにした。建設費は当初予定したよりは遥かに大きく、二三億余円の経費を要したが、造るとすれば理想的な施設としたいと思って、予算を支出した。
建設進む身心障害者コロニー |
教育施設としては、県立短大を大学に昇格するために外国学部の増設もあるが、特に国立の愛知教育大学が名古屋と岡崎の両分校に分れていたのを桑原知事の非常な努力で統合し、刈谷市井ケ谷に敷地を決定し、長年の懸案を解決した。
その他の事業としては県立高校の増設等もある。桑原知事が最も力を入れて、理想的な大学として建設されたのは愛知県立芸術大学である。その建設については、文化会館の建設の際のように一部の県議会方面の反対もあったが、農業試験場を統合し、稲作、園芸、畜産、養鶏、養蚕を合わせて総合農業試験場を並行して建設することとし、長久手村(現在町)の県有地に隣り合わせて建設を進めた。両方とも四十一年には一応開設された。その後も整備充実が行われ、両方ともに今日見るような全国に誇る施設となった。
福祉施設としてユニークなものは、心身障害者の収容、訓練、教育の施設と研究所、病院の総合施設としてのコロニーの建設である。これは桑原知事の強い人道的立場に立った意向を受けて、普通の財政的見地を離れて建設されたもので、敷地についても種々考え、初めは大府の国立療養所跡を候補地として交渉したが、移転の時期の関係で話がつかず、予算提出の時期の関係もあって、春日井市の県有地に建設することにした。地形の関係もあって、建設物のレイアウトがむずかしい状況もあったが、当時設計事務所を開いたばかりで、無名の少壮技術者であった黒川紀章氏に基本設計を作成してもらった。そして、地形の困難を克服し、総工費五〇億円余を投じて世界的な施設が建設された。
国 連 調 査 団 |
中部圏開発整備法の制定
前に述べたように、第一次地方計画においては、計画の背景として中部経済圏を構想し、東海地方と北陸地方を結合した中部地域の中枢としての愛知県の計画を作成した。そして、将来は関東と関西の両経済圏の中間に、表日本と裏日本を結ぶ地域を一体とした経済圏の発展をめざして、開発整備を進めることを構想した。しかし、地方計画は愛知県の計画であるので、中部圏の開発整備を進めるには関係県と協力し、これを国の制度としてとり上げることが必要であった。
国土総合開発法では、全国計画と府県計画の間に地方計画を定めることになっており、東北地方、首都圏、北陸地方、近畿圏、中国、四国、九州等には、それぞれ地方単位の総合開発計画の作成が行われていたが、中部にはそれがなかった。東海と北陸を一つにした中部圏の開発整備を進めたいと、調査研究を進めるとともに、その実現の方法等について、衆議院の地方行政委員会の専門調査委員や法制局の関係者などの意見も聞いて、内々に研究を行っていた。
こうした時期に、三十九年四月に国連の「都市問題及び地域計画に関する一九六四年調査団」、いわゆる「ワイズマン国連調査団」が来朝した。これはアーネスト・ワイズマンを団長として、オランダのヤコブ・タイセイ、米国のエルビーザーガーの三人の地域開発の専門家によって構成されていた。
ワイズマン氏来訪(昭42.4.12) |
この時、建設省から提出されていた資料には、中京圏開発整備計画で、東海三県の地域の開発整備を構想していた。しかし、愛知県としては地方計画以来中部圏を構想していたので、中部圏開発整備の資料を提出し、これに基づいて、知事室において桑原知事から中部圏の開発整備の構想を説明するとともに、その実現の必要性を強調した。
ワイズマン調査団はこれに同調し、四月十一日に調査の結果として、『中部圏地域計画調査に関するメモ』を発表し、「関東・近畿両圏をつなぐ強力な力、それに伊勢湾と北陸を結ぶ新しい流れ、これがこの地域の将来の開発の骨格でなければならない」と宣言した。そして、地元はもちろん各新聞等は大々的にこれを報道し、中部圏開発整備の機運は大いに高揚した。ワイズマン氏は長年国連において地域開発問題を担当しているその道のベテランであり、情勢判断にもきわめて勝れた見識をもち、説得力をもった堂々たる押し出しの人物であった。その後も度々愛知県に来て、中部圏の開発整備について熱心に助言をされた。
中部圏各界懇談会(昭42.9.11) |
こうして、中部圏開発整備推進の機運が高まり、四十年四月津市で開かれた第六回東海北陸知事会議で、桑原知事は「中部圏開発整備法の制定について」提案し、各県知事の賛成を得た。次いで、八月に名古屋市で開かれた第七回東海北陸知事会議で「中部開発整備法(仮称)要綱案」と「同法制定の趣意書」を決定した。
そして、関係県選出の国会議員による、中部開発整備法制定促進国会議員同盟が結成され、超党派で立法化を促進することとした。益谷秀次代議士が会長となり、地元の江崎真澄代議士が実際の推進の中心となって立法化が進められた。四十一年の第五一国会に、地元作成の要綱をもとに「中部圏開発整備法案」が議員提案として国会に提出されて、六月に可決、公布された。
この法律に基づいて、総理府に中部圏開発整備本部と中部圏開発整備審議会が置かれた。また、地元には中部圏開発整備地方協議会が設けられ、愛知県に事務局が置かれた。
中部圏開発整備法の特色は、これまでの近畿圏や東北地方等、各地方開発整備法では、国が地方の意見を聞いて計画案を作成するようになっていたが、中部圏開発整備法では、地方協議会で計画を作成し、中央の中部圏開発審議会に提出し、審議の上決定されることになっていて、地方主体の計画作成方法をとることになった。この方法によって、四十三年第一回中部圏基本開発整備計画が成立した。
このようにして、第一回地方計画において、計画の背景として構想された、中部経済圏が発展して、中部圏開発整備計画が国の制度として正式に成立し、<中部は一つ>の理念のもとに、中部九県と名古屋市の協力体制によって開発整備が進められることになった。
中部圏開発整備法成立報告愛知大会―県文化講堂 |
副知事退職と県史編集
私は前に述べたように、昭和三十八年七月一日付で副知事に任命された。そして、四十二年六月末で第一期の任期が満了したが、前年の末から先任の鈴木慶太郎副知事が肺がんのためがんセンターに入院し治療に努めたが、翌年三月に逝去した。この間知事の補佐として県政事務に当たり、二月には知事選挙が行われた。中部圏開発整備計画が成立し、県政が隆々と発展した関係もあって、桑原知事は県民の圧倒的支持を受けて、県下全市町村と名古屋市の区部においても勝って、五選を果たされた。五月には全国知事会長に就任された。そんな関係もあって、七月一日付で副知事に再任された。そして、先任副知事として、新に副知事に任命された岩瀬繁一氏とともに、知事の補佐役を勤めることになった。
岩瀬副知事は謹直公正な練達の行政家であったので、協力して知事を補佐し、行政事務の運営に当たった。
何より大切なことは、適材適所によって公正な人事を行い、職員が安心して職務に当たり、庁内が和をもって一致協力できるようにすることである。そして、各部課長も遠慮なしに副知事に相談し、知事の意向がそれぞれの部門に徹底するように行政事務を進めることを第一に考えた。
前に述べたように、世紀の大事業といわれた愛知用水や豊川用水も立派に完成し、その後に残った負担問題や水利用の問題も解決した。また、臨海工業地帯の造成や内陸工業地帯の整備発展も軌道に乗ってきたし、中部圏開発整備計画も成立し、その上ヨーロッパ各国の視察もさせていただいたので、二期目一ぱい勤めることは冥利に尽きると思った。半分の二年位で後進に道を譲ることが正しい進退と思い、知事にも内々申し上げていたが、結局いろいろの県政上の都合によって任期一年を残し、私は四十五年五月末日付で副知事を退任した。後任には総務部長の鈴木義苗氏が定年退職の時期にも当たったので、後任副知事に選任された。
思えば昭和二十二年新地方自治制度の発足とともに、愛知県に勤務することになり、以来二五年間引き続いて愛知県に勤務した。二十六年以来桑原知事の下で、企画長として新しい総合開発の仕事を担当し、試行錯誤の経験を繰り返し、時には仕事が思うようには進まず、投げ出したいと思ったことも度々だったが、何とか計画行政という将来の行政に対し新しい方向を見出して、地方計画に発展させることができた。そして、一三号台風や伊勢湾台風の災害復興計画もつくり、総務部長、副知事として桑原県政の枢機に参与して、県政の発展に微力を尽くすことができたことは、病弱の身で途中から行政の道に進んだ自分としては、ほんとうに幸いであったと思う。
これというのも、桑原知事という名知事の下で、終始一貫人間的にも行政の上でも指導薫陶を受けることができたからである。そして、その一方では行政の実際の立場から地方行政制度や昭和の社会経済の歴史的発展について、自分なりに勉強して来たので、この間における桑原県政の記録をつくり、後世に残したいとかねてから思っていた。これまでも『愛知用水史』や『豊川用水史』、または『一三号台風災害復興誌』『伊勢湾台風災害復興誌』等についても記録を整理し出版するようにしてきたが、ちょうど昭和四十七年は愛知県成立百年に当たるので、その記念事業として愛知県政史を作成したいと計画した。
愛知県は昭和十五年に、大正末年までの愛知県史が編纂されているので、それに続く形で『愛知県昭和史』を編纂し、正確な資料により、県政の真の姿を後世に残す必要があった。私は歴史の勉強をしたこともあり、戦後引続いて県行政に関係し、その内容も分かっているので、副知事を退任したらその仕事をやりながら、傍ら自分自身の勉強の仕上げと、自分のたどった人生についても書いて見たいと思った。
四十五年度予算に県史編纂に関する経費を計上するとともに、副知事を退任して、特に桑原知事に頼んで文化会館長を嘱託してもらい、文化会館の中に県史編集室を設けた。文化会館の図書部の岡田英雄課長は歴史の専門家で、この道の練達者であるので、県史編集室長とし、その下に庁内や高等学校方面から適材を選んで編集員とした。私は監修者として、名古屋大学教授松井武敏氏とともに監修に当たることになった。
こうして、私は自分の最も適当の地位で、かねて自分で考えた勉強もできると思って、県史編集の仕事をスタートさせた。ところが、その年の九月には愛知県と名古屋市の共同事業として計画していた名古屋都市高速道路の建設が始められることになったため、その事業主体として名古屋高速道路公社が国・県及び名古屋市の共同で設立されることになり、その理事長になるようにと、桑原知事から強く要望された。いろいろの関係上辞退もできず、遂に理事長を引き受けることになった。
私は、名古屋高速道路公社の理事長として、公社の発足や工事着工の事務を進めながらも、一方、県史編集の監修の仕事はできるだけ続けた。幸いに岡田室長以下編集員の努力で仕事が進行し、四十七年十一月の愛知県百年記念式までには、予定通り立派に印刷を完成させることができた。
名古屋高速道路公社は役職員の任命や仕事のスタートはできたが、運悪く杉戸市長が翌年の市長選に落選し、高速道路反対を主張した共産党等の推す本山市長が当選し、一時工事が中断する等予想外に難航し、苦労することになった。
しかし、本書においては、愛知県政を主にして自分の思い出を書くことにしているので、一応昭和四十五年までにして筆を止め、その後のことは今後機会があれば別に記すことにしたいと思う。
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西欧の都市問題を視察して
これまで述べてきたように、私は昭和二十六年から約十年間、桑原知事の下で、企画長として地域計画の事務を担当し、特定地域の総合開発の計画を推進した。さらに、愛知県地方計画の策定事務に当たり、その後は総務部長、副知事として、地方計画を県政の指針として行政に実現するとともに、地方行政と地域計画の関係について研究し、地方計画を発展させ中部圏開発整備法も制定された。
戦後の地域開発については、特定地域の総合開発時代は水資源開発を中心に、天然資源の開発が中心課題であった。次いで、臨海工業地帯の開発によって重化学工業の発達を図り、それを基盤として、内陸工業を発展させ、工業生産を拡大し、経済の高度成長と国民所得の増大が行われた。
しかし、その結果は大都市の急激な発展と農山村の人口の減少や過疎化、農業の衰退を来たし、都市と農村の調和が失われるようになった。一方、都市の過密化による公害の増大などいろいろの問題が起こってきた。
こうした問題を解決し、都市、農村の調和を図り、人間のための新しい生活空間を築き上げることが新しい地域開発の課題であると思い、私は西欧先進国の地域計画の問題、特に英国の田園都市について研究を進めた。そして、愛知県の地方計画や中部圏の開発整備計画との関連において、英国大使館や、英国の神戸総領事館の方々とも関係が深くなり、総領事館のナイト氏を通じ、英国の住宅地方行政省の主任計画官、J・R・ジェームス氏の好意もあって、イギリス政府から、イギリスの住宅及び都市問題の視察に招待された。そこで、県の小倉重男外事専門員と共に、昭和四十三年四月二十日に、ロンドンに到着、以来一〇日間ロンドン及びその近郊のニュータウン、マンチェスター、シェフィールド、エジンバラ等を中心に、都市及び住宅計画等を主に視察した。
さらに、ヨーロッパのフランス、ベルギー、オランダ、西ドイツ、スイス、イタリアの各国についても、都市や住宅問題について視察した。約一か月の短い期間であったが、イギリスでは政府担当者の案内で都市の再開発やニュータウン計画を主に視察し、政府関係の専門家について、都市問題や地域開発について説明を受け勉強した。ヨーロッパ大陸諸国では、各地の日本大使館、ジェトロ等の駐在員をはじめ、商社や新聞社の方々等の好意で、予想以上に有効な視察をすることができた。
この視察報告のかたがた、これまで都市問題や地域開発について自分なりに勉強してきたことを一応とりまとめて、『都市と地域開発―生活空間の未来像―』と題して、日本経済新聞社から出版した。これは戦後の総合開発から地方計画及び中部圏開発整備に亘って、自分が地域問題について担当してきた実際の仕事や勉強の総括のようなものである。そして、現在でも不完全ではあるが、自分の地域問題の考え方を述べていると思うので、その結論の部分をここに再録して付加することにした。
都市機能と都市対策
<都市と都市圏> 都市は地域生活の中心であり、都市機能の及ぶ範囲をもって都市圏を構成し、その大小と機能の高さによって大都市、中都市、小都市に分かれる。しかし、それは必ずしも中心都市の人口や地域の大きさによるのではない。もちろん中枢管理機能が高く、都市機能の集積が大きければ、人口も多くなることは当然であるが、工場は都市の外に分散するとともに、人口の集中を防ぐことも必要である。東京、大阪、名古屋等の大都市と、これに次ぐ札幌、仙台、広島、北九州等の各地域ブロックに、中心都市を核として大きな都市圏を構成し、さらに現在の県単位を標準に地方基幹都市を形成し、その下に中小都市および農村集落がそれぞれ都市の機能を分担しながら配置される。かくて、首都はピラミッドの頂点として大都市、中小都市および村落が、その勢力圏の及ぶ範囲と機能の高さによって階層的に構成されるわけである。
<首都の都市対策> 将来の都市問題において最も重大なものは、首都としての東京のあり方である。東京はわが国の首都であるとともに、国際的には世界の中心都市の一つであり、政治、経済、文化の中心として国内はもちろん国際的にも大きな影響をもっている。したがってその機能を遂行するためには各種の機関が必要であり、人口が集中するのは当然である。
しかし、現在の東京は過度の集積のため都市機能が低下し、住宅不足、通勤距離の増大、公害、交通事故等によって、住民は肉体的、精神的にも健康を失いつつある。東京の中枢管理機能が低下するということは、わが国全体の中枢管理機能が低下するということで、脳中枢に故障をもった人間のように、正常な活動能力は失われ、国家全体の危険をはらんでいる。もし関東大震災級の地震や伊勢湾台風級の高潮が襲来した場合、東京の災害と政治、経済の混乱は想像しただけで慄然(りつぜん)たるものがある。
このような東京都とは対照的に、ロンドンは戦後大ロンドン計画をつくり、市内を(1)内部市街地域(都心から半径一〇〜一五キロ)、(2)郊外地域(内部市街の外側の約一〇キロの環状の区域)、(3)グリーンベルト(郊外地の外側で幅一〇〜一五キロの環状の区域)、(4)周辺地域(グリーンベルト外側の環状区域)に分けて、中心部の無秩序の膨張を抑制し、適正な人口密度と空地の確保等により、都市機能の増進をはかった。
東京の首都圏整備の計画も大ロンドン計画に類似していたが、実際にはこれを実現するための施策が伴わなかったので、都市の膨張と過密状態はますます進行した。これは財政資金の不足や土地対策、建築規制等の不徹底もあるが、東京都およびその周辺の発達の歴史や土地利用形態、衛星都市の配置などがロンドンとは根本的に違っているためで、ロンドンと同じように同心円的な線を引いて計画をつくっても効果をあげることは、はじめから困難であった。もっと地域の実態について具体的なきめ細かい土地利用計画をつくり、これを強力に推進するために、法的規制や税財政の裏付けを行わなければならない。
東京の都市対策は、交通機関や上下水道等の都市施設の整備、建築制限などではもはやどうにもならぬ段階にきており、抜本的対策が必要である。東京の都市対策は近年各方面において論ぜられているが、その根本的な対策は次の二つにしぼられる。
第一は首都の移転である。首都を東京から他の地域に移し、新しい政治中心の都市を建設して政治・行政の諸施設を移し、ワシントンとニューヨークのように政治と経済の中心都市を分ける方法である。今世紀にはいってオーストラリアのキャンベラ、ブラジルのブラジリアなどの新首都建設が行われている。またオランダでは、ハーグ、アムステルダム、を中心に環状都市群を形成し、それぞれ都市機能を分担している。
わが国でも古来、政治の革新の場合にはその中心を移している。近くは明治維新の時に、首都を京都から東京に移転した。しかし、首都の移転は政治革命を目的とする場合が多く、平時には実行がきわめて困難である。また、政治と経済がますます密接となっている近代国家において、政治の中心と経済の中心を分けることは、国全体としての中枢管理機能を低下させるという犠牲がきわめて大きい点も、見逃がすわけにはいかない。
第二は、東京には政治、経済、文化において全国的中枢管理機能を行うに最小限必要な機関だけを残し、他は地方の大都市あるいは中小都市等に分散移転することである。すなわち、中央機関として絶対必要なもの以外の行政・文化施設は、全部地方に移すことである。また、工場、商店等もできるだけ地方に移転させる。そのためには、都市の法的規制と税制・財政措置その他の施策とを徹底的に行うことである。そして地方に移転する工場等の敷地は国および東京都が買い上げる。そうすれば、移転する企業はその資金を得ることができるし、その跡地にはパーキングスペースをはじめ大都市および首都として必要な施設、公園緑地などを建設することができる。
日本の国土政策の中では、集中利益とは何か、反対に集中によるマイナスとは何かという問題が必ずしもじゅうぶんに掘り下げられているとはいえない。たとえば、新全国総合開発計画(案)では、昭和六十年の東京圏の人口を二、五〇〇万人と推定し、一日三百万人の人が通勤すると予測しているが、三百万人が生産に従事してあげる利益に対し、三百万人が費やす通勤費とそれに要する時間および公共投資は、まったくのマイナス値である。このマイナス値を、政府も企業も経済計算の中に入れていない。
このような意味で、集積の利益よりは過密の弊害の方が大きくなり、産業活動、特に工場生産能率がジリ貧となっている企業は、遠からず移転せざるをえない運命にあることを思って、勇断をもって工場の地方移転を実行すべきであろう。これはもちろん大事業であるが、増大する公共投資と地価の上昇、人間の肉体と精神の健康がむしばまれることを考え、さらに地震等の大災害を想定した場合、東京にすべてを集中させたままではきわめて危険であり、国家の死活問題でもあるのでぜひとも地方移転を実施すべきである。
首都として機能を果たすためにどうしても必要な人口は、せいぜい現在の東京都の三分の一ないし五分の一程度にすぎないであろう。それ以上の施設や人口の集中は、首都機能を低下させるだけである。人口の増大が都市の発展であるという錯覚から脱却し、真に能率的で健全な機能をもつ大都市をめざさなければならない。
<大都市と地方都市> 東京がわが国の首都であり、全国の政治・経済・文化の中心であるのに対して、大阪は阪神工業地帯を基盤とした関西における産業の中心である。また、名古屋は伊勢湾工業地帯を基盤として、中部経済圏の中心都市である。そのほかに北九州市や瀬戸内海沿岸工業地帯の中心である広島などがある。また北海道、東北などにはまだ大きな工業地帯や大都市は発達していないが、それぞれの地方ブロックにはその地域の産業・経済の中心地があり、また、地域の行政・文化等の中枢機能をもつ都市が発達しつつある。
これらの大都市は、一方では東京のもつ経済、行政および情報の中枢管理機能を分担し、また一面では、東京の過大化を抑制する役割をもつことが必要である。またこれらの大都市の工場は、臨海地帯のように、港湾と一体化して移転することのできないものを除いて、原則として衛星都市および地方都市地域に移すべきである。そして、工場の跡地は緑地公園とし、都市の美観と市民の健康の増進をはかることが必要である。特に、臨海工業地帯と市街地域の間には緑地公園を設け、公害の防止をはかるような施策の展開がなくてはならない。また、都市内の用途区域を合理的に配置し街路、地下鉄、上下水道等の都市施設や都市圏全体の中心として必要な文化施設、娯楽施設等を整備する必要もある。さらに、大都市と衛星都市との間には、保存農地、緑地、公園、レクリェーション施設等を配置し、グリーン・ベルトを形成することも必要である。
こうした新しい都市と地域開発について、名古屋の都市計画と中部圏開発整備を例にとって、その考え方を述べることにしたい。名古屋は戦災復興を機会として都市計画を実行し、市の中心部には東西・南北二本の画期的な百メートル道路と、五十メートルの主要幹線道路数本ずつをはじめ、街路を整備し、末端の小路でも自動車のすれ違いができるよう配慮し、自動車交通時代の都市を建設した。
また、街路計画とともに地下鉄予定路線を計画し、将来の都市交通網の中心となるように考えている。その他市内の墓地を郊外に移転させ、これを墓地公園とした。これらの道路、公園用地は、区画整理の換地処分による私有地の減歩によって確保した。また、市の周辺部も、区画整理によって都市改造や住宅地の建設を行っている。
愛知県については、名古屋市と協力して、昭和三十三年に愛知県地方計画をつくり、名古屋港の整備とその周辺の埋立てを計画した。ここに東海製鉄(現在新日本製鉄名古屋製鉄所)をはじめ重化学の基幹工場を建設し、中部地方の産業構造の高度化と工場配置の適正化をはかった。一方では、大都市の過大化を防ぎ、中小都市および農村の均衡ある発展をはかるため、名古屋の市外地域は、将来の計画市域の半径一五キロのうちほぼ半径八キロとし、その周辺にグリーン・ベルト地帯を設けた。ここには近郊農業地帯、森林公園、ゴルフ場、青少年野外活動ゾーン等を建設整備し、工場はできるだけ衛星都市に建設する方針を進めている。
さらに、都市交通の発達に対処して、グリーンベルト地帯と市街地域の間に幅六〇メートルの第二環状線を建設し、通過交通の市内進入を防ぐとともに、郊外と市内交通の整理を行うこととした。さらに、市内にも高速道路を建設し、東名、名神、名阪、中央道、東海北陸自動車道等の高速道路との市内連絡路を計画している。今後、市内の木材団地が西部臨海地帯へ移転するのをはじめ、工場を郊外および地方都市に移し、跡地には公園、緑地、文化施設、レクリェーション施設等の整備をはかる計画が進められている。
このようにして、名古屋市を近代的な大都市とするための建設整備を進めるとともに、半径三〇キロないし四〇キロ圏に衛星都市を育成し、それぞれの都市に適応する工業を発達させることをめざしている。また、愛知用水、豊川用水、矢作川総合水利等の大水利事業を強力に実施し、都市用水および農業用水の確保に努め、農業、工業の均衡のとれた発展をはかっている。
転じて中部全体をみると、中部九県の協力によって中部圏開発整備法が制定され、これに基づいて四十三年、中部圏基本開発整備計画が国家計画として決定された。この計画では、名古屋市を中心に各県に一ないし二くらいの地方都市を発展させ、これをその地方の産業および行政、文化の中心とする考えである。さらにその地方都市のまわりに小都市を配置する多核的都市配置方式によって、中部地域全体の均衡のとれた発展を企図している。
もちろん、中部圏開発整備が理想通り実現することは容易ではないであろうし、国および関係各県や市町村、民間全体の協力と住民の努力が必要である。しかし、大都市を中核に、中小都市がそれぞれ地域の生活圏の中心として多核的都市配置を形成し、各都市の歴史と立地条件によって産業および行政、文化の機能を分担して、地域全体の調和と均衡のとれた発展をはかることは、こんごの都市発展の正しいあり方であると確信している。
このようにして、日本全国を七ないし八つくらいの経済圏に分け、各ブロックは大都市を中心に中小都市が多核的に配置され、それぞれの都市圏を階層的に構成して、国土全体の発展をはかることが必要となろう。
こうした都市の発展方向に対応しつつ、それを誘導するような交通・通信等の諸施設の整備も必要である。特に、地方文化の発展のために、それぞれ地域の特性に応じた大学を設立して、地域開発の研究と地方文化の振興をはかることは、国土の均衡ある発展と青少年の健全な育成のために、最も効果が大きいであろう。
<工業の配置> 産業配置は都市配置と表裏の関係にある。近代都市は工業の発展によって発達したが、新しい地域構造においては、工業は必ずしも都市内に立地する必要はない。
輸入原材料に依存しているわが国では、東京湾、伊勢湾、大阪湾などの臨海地帯に、基幹産業である重化学工業の大規模な工場を配置し、これを中心とした工業配置を行うことが必要である。臨海工業地帯と市街地域の間には遮断緑地帯を設けて、都市を公害から守らなければならない。
内陸地域には機械、自動車、電気機器、精密機械及び繊維その他の軽工業を配置するが、大都市内の工場はできるだけ衛星都市に移し、新しい工場の配置を制限することが必要である。内陸部の工場は原則として高度加工工業とするが、輸送コストの高いものは臨海地帯の近くに、輸送コストの低いものほど奥地に配置する。これとともに市街地域や住宅地域に近い工場は、公害の少ないものを設置することが必要である。
このように、臨海工業地帯を中心として各地域ブロック工業圏を形成し、国全体の工業配置の適正化をはかるべきである。それによって、国土利用は合理化され、産業能率は高められ、人口の適正な分散が期待できるのである。
<農業と農村地域の開発> わが国においては従来、商工業と農業、都市と農村は対立的に考えられてきた。明治以来の資本主義経済の発展は、農村の生産力とその犠牲の上に進められた。そして農は国の基といわれながら、富は都市に集中され、東京は花の都であり、成功の機会、人生の登竜門であると考えられた。有為の青少年は都市をめざして集まり、都市人口は増大したが、農村は都市のための労力源となってしだいに衰微した。特に昭和三十年以後の農村人口の流出は激しく、いわゆる過疎現象をきたして、地域社会は崩壊の危機にさらされているものが多い。
昭和三十年からの一〇年間に、農業人口はその三分の一に当たる五三三万人が減少している。しかもその流出の中心は新規学卒者で占められている。「新全国総合開発計画(案)」では、第一次産業の全産業に占める比率は、昭和四十年に生産額で一一・八%、就業人口で二四・七%であるが、昭和六十年には生産額で約五%、就業人口で八〜九%と想定している。
このような農村人口の激減にもかかわらず、農業における構造改善、生産技術の進歩、肥料や農薬の発達等により農業生産は、順調に進み、国民の主食確保と資源の有効利用を成し遂げ、国民経済的使命を果たしている。
またわが国の農業は欧米諸国のような大経営ではなく、平均〇・五ヘクタールという驚くべき零細規模の集約農業である。このため兼業農家が多く、昭和四十年の全国平均で兼業率は七八%、愛知県のごときは八六・九%に達している。したがって正確な意味での農業人口の把握は困難であるといっても過言でない。昭和四十二年の農家所得は平均一一一万九千円であるが、そのうち農業所得は五〇万七千円、農業外所得は六一万三千円という数字である。農業者というより賃金労働者の性格が強いといわなければならない。
従来わが国の農業政策は兼業農家をきらって、適正規模の自営専業農家の育成ということを中心においてきた。しかし実態は、好むと好まざるとにかかわらず、兼業化が増大している。したがって、兼業農家のあり方に重点を置いた政策が必要である。北海道、東北、北陸をはじめ農地面積の多い稲作地帯では、経営規模の拡大は望ましいことであり、これによって農業の近代化をはからなければならない。しかし、土地価格の上昇や分割相続等によって、経営規模の細分化と兼業化が進むことは必然的である。
これに対応して、政府も農業経営の合理化と近代化の方法を考えるとともに、都市近郊における農地が緑地として都市の美化、住民の健康に果たす役割を重視しなければならない。都市的業務に従事する余暇に自然に親しみ、趣味と実益を兼ねた施設園芸や果樹、野菜等の農業を経営することは、人間生活のあり方としてその価値を重視しなければならない。すなわち、イギリスのニュータウンの創始者ハワードが田園都市において考えたように、農村のもっている自然と、調和のとれた健全な肉体と精神を、都市のもっている知識と文化に結合させ、そこに健康な生活環境と人間性の涵養の場を見出すことが将来の人間生活のあり方として必要であろう。
このようにして、農業および農地の果たす役割を重視し、農村と都市との再結合、すなわち都市と農村の適正配置と、生産および生活関係を総合的に考えた新しい空間秩序の確立が必要である。特に大都市では、過密化によって交通や用水等の工業立地条件が低下している。一方、交通・通信のネットワークはどんどん整備されてくるので、これからの工場立地はむしろ地方が有利となりつつある。
こう考えれば、京浜、阪神をはじめ大都市の過密地帯の工場は、それぞれの特性に応じて地方に移し、人口の流出や農閑期の出稼ぎを防止して、優秀な労働力を確保するとともに、都市と農村の均衡のとれた発展をはかることが必要である。これは長期的にみて、生産性の向上と健全な国民生活のために最も効果のある方法であろう。そのためには、さらに農業における構造改善を進め、生産性の向上と文化厚生施設の充実をはかり、生活意識を高めて、農業と商工業を総合した農村地域社会を新しく再編成しなければならない。
<山岳地帯の開発と保全> わが国土の約八〇%は山地である。農業が国民生産の主力であった時代は、山地は木材の生産、薪炭、採草などの用地で、その利用価値は少なく、生産性は低かった。そして、山岳は交通を遮断し、文化の伝達を妨げ、地域発展のために大きな障害であった。
しかし、わが国の山地は大山岳地帯ではなく、大部分は地形もさほどけわしくない。早くから人が住み、道路や鉄道も通じていた。特に、近年は土木技術の発達により、山地にも各種の交通機関が整備され、自動車交通の便が進み、都市との連絡はずいぶん便利になってきている。全国の主要都市から一〇〇キロの半径を描けば、日本全国はほとんどその中に入る。
ハイウエー時代には一〇〇キロは一時間の距離である。したがって、交通・通信のネットワークを整備すれば、山地といえども大都市から二時間、地方都市からは一時間くらいの交通圏になるであろう。
わが国の山地のように樹木がよく育ち、良好な水源をもち、美しい景観をもっているところは、交通が発達し、都市的生活施設を整備すれば、最もよい人間の生活の場と変わり、教育・研究機関を設置するにも適している。
また、精密機械や電気機器などの工場立地も可能であり、山村独自の工芸品等を育成することもできる。さらに、都市のためのレクリエーション地帯としても主要な地位を占める。これからは山村地域の開発が重要課題であり、これとともに山岳地帯の景勝地や森林の保全が重要な問題になってくる。
<新しい生活空間の形成> 水は低きに流れ、人や企業は利潤や所得の高いところに移る。産業革命による機械生産と汽車、汽船の発達による輸送の革命は集積の利益を増加し、人間の都市生活を発達させた。そして、経済の発達は都市の発達と並行して進み、遂に巨大都市を生み出した。しかし、自動車交通の発達は大都市の過密化を増大し、生産活動も人間生活も身動きできない状態となり、都市機能の低下と生活環境の悪化を招来している。
<これを成し遂げた原理はこれを滅ぼす原理でもある> といわれる。交通通信の発達は大都市の発展をもたらしたが、一方ではその行き詰まりを招き、他方では産業の地方分散を可能にした。さらに地方においても、都市生活の利便と文化を享受できるようになった。
もはや都市の発達は文化の発達であり、都市は文明の華であり、人間の幸福な生活は都市にあるという時代は過ぎようとしている。われわれは一九世紀以来の文明のあり方と人間生活を反省し、大都市中心の政策と大都市万能の夢から覚め、新しい人間の生活空間を考えた国づくりを行わなければならない。地方に住む方が、大都市に住むよりも経済的利益も文化的魅力も大きくなり、健康な生活ができるようになれば、現在のような大都市集中の現象も弱まり、国土全体の均衡のある開発が期待できるであろう。要は元栓をしめることである。
交通・通信の発達、教育水準の高度化、技術の進歩などによって、いまや生産の能率を高めるとともに、健康で快適な生活を行うことのできるような新しい地域構造を実現し、国土の均衡のとれた開発をはかることが可能となってきた。要はわれわれの決意と努力であり、それは将来の人々のためにぜひとも実現しなければならない現代に生きるものの務めである。産業のための都市、経済のための人間生活から、人間のための産業、人間生活のための都市へと、新しい生活空間の秩序を建設しなければならない。
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