mokuji | HOME |
一 戦後の法律の研究
西洋法制の輸入
二 占領行政と日本国憲法の制定
占 領 行 政
三 日本国憲法の問題について
天 皇 の 地 位
四 日本人の法意識
西洋の法律の輸入について
五 行政と公務員
法 律 と 公 務 員 |
目次 | top | HOME |
P206
西洋法制の輸入
これまで戦後の行政について述べてきたが、そこでも書いたように、私は戦後は行政の実務をやりながら、一方では我が国の法律について自分の世界観と行政の実務の立場から、もう一度系統的に勉強しなければならないと思った。そして、できるだけ法律書を読むとともに、行政の経験から法律の機能や在り方について考え続けてきた。これは法律学者として法律を勉強するためではなく、行政の責任者としてその立場からの法律研究である。その軌跡のようなものを述べてみようと思うのである。
行政法の教科書によれば、近代国家の行政は <法律による行政>であるといわれ、国会において成立した法律を解釈・適用する作業のようにいわれている。確かに行政は法令に基づいて公正に行われ、公務員個人の恣意によって勝手に行ってはならない。しかし、実際の問題に当たると、法令の文理解釈だけでは解決できない問題が余りにも多い。
真に法律を正しく解釈し、生きた行政を行うには、その法律が制定されるに至った社会的・経済的背景と経過を明らかにするとともに、現在の社会経済の実状や、さらには国家の歴史と伝統、国民の法意識との関係をも考えなければならない。
我が国は明治維新後、西洋文明をとり入れて急速に近代化を進めた。特に法律については、徳川幕府が締結した安政の不平等条約を改正し、治外法権を撤廃する必要から、急いで西欧の法制を学び、法典を整備する必要があった。そして、初めは主にフランスの法制を、次いでドイツ帝国の法制を学び、憲法をはじめ、民法、商法、刑法、刑事訴訟法、民事訴訟法等の諸法典ならびにこれに伴う諸法令を、明治二十年代の僅か一〇年足らずの間に次々と制定し、それとともに、それを実施するための行政組織や司法制度をつくりあげた。
あれほどの大法典を短時日の間に学び、周到に整備したのである。これには、外国人の法律学者の指導や協力があったとしても、当時の法律家の勉強と体系化への努力はたいへんなものであり、特筆すべき大事業といってよかろう。
法典を整備し、これを実施するために、法律学者は西欧諸国に留学し、そこで法律学を学び、これを移入して、東京帝国大学をはじめ各大学で教えて、司法官や行政官を養成した。官吏となるためには、これらの法律を学び、高等文官試験に合格しなければ、原則として上級の官吏となることはできなかった。したがって、法科万能の風潮がつくられたのである。
その法律学は、主として一九世紀のヨーロッパ各国において発達した「法解釈学」であった。「法律は国家の秩序及び社会生活の規範として、統一された国家意志の体系であり、国家理性の表現である。法律の解釈及び適用が評価的態度をまじえない純粋認識的手続によって可能である」という概念法学であった。
これについて、川島武宜教授はその著『日本人の法意識』の中で、「このような歴史的背景の中で作られた諸法典の大部分は、基本的な用語・観念・論理・思想において、はなはだ西洋的であった」と述べている。また「伝統的な社会秩序と異質的な内容をもつ法律を外国から継受された場合に、それが社会的統制機能との間において、法と社会との間にどのような相克や問題を生ずるかというようなことは余り考えられなかった」と言われている。
現在においても、法律学者や法律の執行に当たる行政職員や裁判官には、このことが十分に考えられていないのではなかろうか。
明治時代の法律制度は外国から学び、継受した法律であっても、それは国民の自由意志で学び、わが国の国家主権によって自主的に立法したものである。そして、法を学ぶ者も執行する当事者も、純粋に正しい近代法を学び、これを執行するという心構えでこれに当たったので、法律それ自体を問題とするところまでは至らなかった。
占領行政と法律
戦後の法律は、敗戦によってアメリカの占領行政下において、占領目的を達成するために、憲法をはじめ行政に関する法律が次々に制定された。また、民法、刑法、訴訟法等もその必要のために改正が行われた。我々の行政に直接関係の深い地方自治法や税財政の関係法についても、大きく改正が行われた。
これらの法律の制定は、一応形式的には日本政府が立案し、国会の議決を経て行われたのではあるが、その内容については、いちいち連合軍総司令部(GHQ)の指示または承認を受けなければならないものが多かった。
もちろんそれだからといって、全部が全部、我が国民の必要や要望に反したというのではない。我が国のために必要であり、しかも占領下でなければとうてい実現できなかったと思われるようなすぐれた立法も多い。しかし、急速に多くの改正や立法が行われ、しかも我が国の実情を十分に理解できていない米軍の指示で制定されたり、またこれに対して我が国の社会経済の実情や、政治行政の能力が十分に対応できないものが多かったことは否定できない。さらに、戦後は法律の知識を逆用して、不正や私利をはかる傾向も生じた。
したがって、こうした背景をもつ戦後の法律に対しては、従来の我が国の行政関係者が考えていた法解釈学的な法律知識では、実際の行政の問題を解決し、処理することはできないものが多い。そうしたことから、従来の教科書風の法律書の勉強では不十分であり、法律の社会学的・哲学的研究が必要であることを痛感した。
法 律 学 の 研 究
このような問題意識によって、当時出版されていた法律書についてできるだけ勉強した。それらの中で、特に新しい方向を示してくれたいくつかの著書を記すことにする。
その一つは、田中耕太郎博士の『世界法の理論』である。田中博士の著書については、これまでも、商法関係の法律書や法学概論等を読んだ。この『世界法の理論』を勉強することによって、近世国家のつくる実定法に対し、人類の普遍の法ともいうべき自然法の存在とその意味の重要性について教えられた。これと、アーノルド・トインビーの『歴史の研究』(長谷川松治訳)を合わせ勉強することによって、世界文明における普遍性と、それぞれの時代や民族における特殊性を考える上において教えられることが多かった。
法律の社会科学的研究については、我妻栄教授の『近代法における債権の優越的地位』を勉強した。同書では資本主義の発達に伴う法律概念の変化、特に近代法の基礎のように思われている私有財産制度の根幹である所有権の実質が変わって、外界の物を直接利用支配する物権から、株式や信託等の収益を目的とする債権に変化してくる法的経緯を明らかにしている。また、川島武宜教授の『所有権法の理論』は、土地所有権について、土地が直接の使用収益を目的とする権利から、観念的な商品価値や資本としての収益権に転化している法的関係を解明している点で、土地問題等を考える上において教えられることが多かった。また、川島教授は『科学としての法律学』を著わして、民法を中心に法社会学的立場で法律の実証的研究の方法論を説かれた。この本の勉強が契機になって、川島先生と親しくなり、現在に至るまで交誼をいただいている。
これらの法社会学の研究は、従来の統治権論による観念的な法解釈から、社会経済の実際について法律を実証的に研究して、地域開発や土地問題等を考える上において得るところが多かった。
一方、法律は人格的行為の問題であるので、さらに進んで法哲学的な研究が必要である。これについては、尾高朝雄教授の『法の窮極に在るもの』や、新しいものとしては、碧海純一教授の『法哲学概論』等を勉強した。また、ラスキ著『近代国家における自由』(保坂良明訳)やヴィノグラドフ著『法における常識』(末延・伊藤訳)なども、法と人間の自由を考える上に参考になった。
地方自治法については、行政の実務の上からも勉強が必要である。戦後の地方自治は、憲法第八章に地方自治について規定を設け、これに基づいて地方自治法が制定された。そして、地方行政は憲法に定める「地方自治の本旨」に基づいて行われることになった。しかし、その法律の解釈については、戦前の道府県制、市制町村制時代の解釈が判例、行政実例、通牒として残っており、『逐條地方自治法提要』がそれらを整理して編集されている。それらを基にした地方自治法の教科書のような、金丸三郎著『地方自治精義』、長野士郎著『地方自治法』などが刊行された。いずれも個人名の著書ではあるが、地方自治法の正統的な解釈として、地方行政の指針となっている。これらは、戦後の地方行政の統一と安定の上に大きな効果を発揮した。だが一面から見れば、戦後の新しい法思想や社会経済の進展に対応した行政を考えるには必ずしも十分ではない。
新しい地方自治をめざした研究としては、田中二郎教授の『地方制度改革の諸問題』、長濱政寿教授の『行政学序説』、『地方自治』や、当時の自治省行政課長(現大阪府知事)岸昌氏の『地方自治の探求』のようなすぐれた研究も発表されていた。田中教授と長濱教授には、前に書いた愛知県地方計画の作成に当たり、行政委員会の委員として協力をいただいた。岸氏は行政の実際において、親しく交誼をいただいている。
senryogyose | TOP |
占 領 行 政
戦後の法律及び行政について研究すると、その基礎となる占領行政と憲法の制定について研究することが必要であった。
占領行政については、講和条約の成立後いろいろの資料や秘話のようなものが発表され、しだいにその実態も明らかになってきている。それらについてもできるだけ勉強したが、とうていその詳細について研究する力もないし、今後においても各方面より新しい資料や研究について発表されるものも多いであろうが、自分として勉強した占領行政の実態とその推移について述べることにする。
日本の占領行政は、ポツダム宣言の受諾と、ミズーリ艦上において調印した降伏文書に基づいて行われた。米軍は最初は直接統治も考えたようだが、我が国の強い要請によって、我が国の政府を通じて行う間接統治の方式が採られた。しかし、それは講和条約によるものでなく、ポツダム宣言に基づいた占領軍の軍事行動の一環としての占領行政であって、我が国家統治の権力は降伏条項を実施するため、連合軍最高司令官に従属する(subject to)という条項によって行われた。この点をまず明確に認識しなければならない。
占領は対日戦争に指導的役割をもった連合軍である米・英・ソ・支各国の共同によって行われる建て前であった。しかし、少数のオーストラリア兵を主とした英連邦軍が一時呉に進駐したが、これもマッカーサー元帥の指揮下にあって、実質的には米軍による占領であった。
ミズーリ号艦上の調印式については、当時の重光、梅津両全権の外務省随員として参加した加瀬俊一氏はその著『日本外交の憂欝』の中で、その模様について、マッカーサー元帥は敗敵を前にして「自由と正義と寛容」を力説する真摯な態度で演説し、それを聞きながら、これなら日本は再起できると思ったと書いている。
連合国各国で組織する極東委員会がワシントンに設置され、また東京には対日理事会が設けられたが、実際上は大した権力はなく、マッカーサー元帥の統帥の下で、連合軍総司令部(GHQ)が日本全土の占領行政を行った。これによって、ドイツのように東西に分割されたり、朝鮮のように三八度線で南北に分断されることがなかった。このことは日本国民のために何よりも幸せであった。
終戦当時の日本の総兵力は六九八万三千人といわれ、本土だけでも二五七万六千人が存在していた。このような大軍が、世界が驚くほど整然と、しかも内地では僅か一か月足らずで武装解除を行い復員した。そして、占領行政は予想以上に平穏に行われた。
しかし、占領行政がスムーズに行われたといっても、それはポツダム宣言受諾という事実の上において、米国を主とした連合軍の作戦行動の一環として行われたものである。 初期の占領政策については、ルーズベルト大統領の下において一九四三年頃から研究された。国務省・陸軍省・海軍省の三省の共同調査委員会(SWNCC)で作成、それを統合参謀本部で決定し、九月二十二日ホワイトハウスから指令されていた。この占領政策の決定については、ルーズベルト大統領の下においてニューディール政策を進めた、多くのユダヤ系のニューディーラーが参画していたといわれる。
これらの終戦直後の占領政策は、GHQにおいて強力に実施された。その改革は、改革というよりは革命ともいうべき内容であった。軍隊の解散と再軍備の禁止、華族制度の廃止、財閥の解体、財産税の徴収、農地改革の実施、公職追放等、戦前に日本共産党がその政策として掲げたものが多い。そして、従来戦勝国が敗戦国に課した賠償金や領土の割譲は要求せず、我が国の民主化を徹底させる思想的・社会階級的改革が主として行われた。そのため、教育や労働政策についても進歩的な改革が強力に進められた。
マッカーサー元帥は「一つの国の国民が終戦時の日本人ほど徹底的に屈服したことは、歴史上前例を見ない。日本人が経験したものは、単なる軍事的敗北や武装兵力の壊滅や、産業基地の喪失以上のものであり、外国人の銃剣に国土を占領されること以上のものですらあった。幾世紀もの間不滅のものとして守られてきた日本的生き方に対する日本人の信念が、完全な敗北の苦しみのうちに根こそぎ崩されたのである」と表明した。これほど民主主義という近代普遍主義の自信を表明した言葉はないであろう。
確かに、我が国は有史以来はじめての敗戦と進駐軍の占領によって精神的ショックを受け、占領軍の強力な政策によって、政治的・社会的にも、思想的にも大きく変わった。そして新しい民主主義を受け入れた。
これらの改革は明治以来の我が国の政治上・社会上の多くの積弊を一掃し、その後の我が国の発展に大きな効果を発揮したものも多い。そして、これらの改革を国民の手で遂行しようとしても不可能のようなものも多くあった。もし、国民同志の間において実施しようとすれば、ソ連の第一次大戦後の革命の争乱や、中国の共産党の革命のような、内乱や国民の間の争闘による多くの怨念を残す結果になったであろう。この意味では占領軍の改革は、その後の我が国の発展に大きな意味をもっている。
しかし、一面からはその改革は、戦勝国が敗戦国民に課した改革であって、米国の立場からその占領目的を達成するための改革であった。そして、その改革が善意から発したものでも、戦勝国が敗戦国に対する政策を実行したものであり、また我が国の歴史や国民性について十分の認識があったとはいえない改革も多いことは当然である。また、その後の国際情勢の変化や我が国の政治経済の発達に対応して、再検討を要する問題が多いのは当然である。
ところが、GHQはその成功した自信の下に、この占領政策によって実施した改革を徹底し、これを永続的に安定させようと考えて憲法の改正を行った。
日本国憲法の制定
憲法改正については、終戦直後成立した東久邇内閣においても調査を進め、次いで成立した幣原内閣はマッカーサー司令部の示唆(しさ)を受けて、十月十三日松本烝治国務相を主任とする憲法問題調査委員会を設け、改正案の作成作業を進めた。また、各政党や弁護士会あるいは民間有志においても、憲法改正案の提示が行われた。
しかし当時は、政府部内では占領軍の改正意図について甘い考えを持っていて、明治憲法の手直し程度を考えていたようである。また、憲法学者の意見もそうしたものが多かった。
戦前の天皇機関説で、右翼の圧迫を受けた美濃部達吉博士も、朝日新聞紙上で「日本の民主化の為にも必ずしも憲法本文の改正をしなくても、附属法令の改正や運用で実現することが十分可能である」とし、当時の逼迫した非常事態の下で、早急に憲法を改正しようとすることは、徒らに混乱を起こすばかりで、適切な結果を得るゆえんでなく、憲法の改正は他日平静な情勢の回復を待って慎重に考慮すべきである旨を発表された。また、佐々木惣一博士等代表的憲法学者も、占領下において憲法の根本的改正には消極的な意見が多かった。
できれば、第二次大戦後ドイツ国民がやったように、占領統治下では憲法改正を行うことなく、旧憲法を停止し、占領行政を行うに必要な国政の基本要綱を作成して、必要な政策や行政を行い、講和条約締結後国論の統一を待って自主的に憲法改正を行うことが憲法の性質から理論的には正しいのであろう。しかし、GHQの憲法改正についての方針は、我が政府当局や学者の考えていたよりははるかに厳しいもので、前に述べた日本管理政策の基本に憲法改正についての基本方針が定められていた。
松本国務相の下でまとめられた検討中の案が毎日新聞にスクープされると、GHQは政府に対し改正案を至急提出することを求めるとともに、日本政府の案が明治憲法の焼直し程度のものとなることを予測し、マッカーサーは、日本国憲法の草案作成を早くも二月三日民政局長ホイットニーに命じた。民政局行政部長ケーディス大佐以下の幕僚は大急ぎで憲法草案を作成し、二月十二日マッカーサーの承認を得た。二月十三日英文の憲法案を示し、この案によって日本文の憲法案を作成し、旧憲法に定めた手続によって改正を行うように指示した。そして、総司令部の示した基本方針と、基本原則に反するものは総司令部としては承認できない旨を表明し、合わせて新憲法起草の作業を他の案件に先立って迅速に行うことを指示した。そして政府は総司令部の案に基づいて改正案を作成した。その改正案は一部分が総司令部の承認を得て改めたほかは、ほとんど総司令部案の通りのものを政府案として作成したものである。諮詢(しじゅん)案は枢密院に付議し、多数をもって可決され、六月二十日第九〇回帝国議会に提出された。
マッカーサー司令官がなぜこのように憲法改正を急いだかということについて、近年の研究では、当時の対日理事会において、ソ連等で天皇制廃止の憲法制定の意見があったので、憲法改正の既成事実を作るためであったともいわれている。
この枢密院の審議において、美濃部達吉顧問官は学者としての良心を貫ぬいて、審議の過程において帝国憲法にかかわる新憲法の制定手続上の疑義を指摘し、諮詢案の撤回を迫った。新憲法の制定にはそれにふさわしい手続が採られるべきである旨を主張し、本会議の議決においても席に着いたまま起立せず、議長は諮詢案は多数をもって可決した旨を宣言したといわれる。
こうしたことは今日では公知の事実であるが、その当時は政府作成の原案であると発表して、帝国議会に提案された。そして、GHQの原案作成ということは一切発表や批判を禁止されていた。
憲法改正案は議会において審議され、一部修正されたが、ほとんど原案の通り可決された。再び枢密院に諮詢の手続を経て天皇の裁可を仰ぎ、十一月三日に公布された。そして、昭和二十二年五月三日施行を見たのである。
日本国憲法は旧憲法に定めた改正手続によって改正し、日本国民の総意によって制定されたと発表された。政府は明治憲法の基本原則は変更されないと声明したが、従来の憲法学から言えば、明治憲法の基本原理は変更されたと言わなければならないであろう。
政府をはじめ、国会も言論界も、憲法改正によって民主主義国家が実現したとして憲法を礼賛した。新憲法は我が国の再建のために重要であり、国民の要望に合致している内容も多く取り入れられている。しかし、基本的にはアメリカの占領政策の目的を達成するために、強力な占領軍の権力の下に制定されたもので、我が国民が自主的に制定したものでないという事実は否定できない。
占領政策の変化
憲法が施行されて間もなく、米国の占領政策が変わってきた。それは一つは戦争の末期においてルーズベルト大統領が逝去し、トルーマン大統領に替わり、非米活動委員会の活動が起こった。いわゆるマッカーシー旋風によってニューディール派が政府部内から失脚するものが多くなるとともに、日本における占領軍の内部においても、急進的な左派が排除されるようになり、保守派の勢力が増大した。それとともに、国際情勢が変わって、米・ソの対立によって冷戦時代に入った。この両方が相関的に働くとともに、一方我が国においては共産党の革命運動が強まったため、昭和二十二年の二・一ストを転機として、占領政策の転換が現われてきた。
各地の軍政部の指令によって、公安条例が各府県や市などにおいて制定された。愛知県においても、青柳知事は軍政部の指示によって、公安条例の制定を行った。反対の学生や労働組合員が県庁内に坐り込み、議場においては野党の反対によって、騒然たる中に公安条例が議決された。私は原案作成や提案手続の公聴会などの仕事に関係したので、特に印象が強い。
また、共産党の禁止、レッド・パージも行われ、日本の再軍備が占領軍から要求されるなど、日本国憲法制定当時には予想もされなかった憲法の規定に反するような占領軍の政策が行われた。
昭和二十五年朝鮮戦争が起こり、二十六年五月にはマッカーサー元帥は占領軍総司令官を罷免された。我が国では衆参両院の感謝決議や国民多数の見送りを受け、米本国に帰り、後任にリッジウェー将軍が着任した。そして、リッジウェー将軍は声明を発し、占領下に制定した諸法令を再検討することを要望するとともに、改正の権限を日本政府に与えた。
昭和二十六年九月には、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印され、二十七年四月に発効した。この講和条約と安保条約の締結を契機として、全面講和論と憲法擁護運動が一つになって、共産党、社会党とそれに同調する進歩的文化人、学生等の憲法擁護、安保反対運動が起こった。そして、政府の方針を支持する自由党、国民民主党やそれに同調する勢力の間に、国論を二分して対立するようになった。
講和条約の発効とともに、憲法制定に関する資料や、実際の情報、占領秘話のようなものが続々と発表された。こうした憲法制定についての占領軍司令部の政策や、我が国のこれに対する受入れ態度や、政府の政策の変遷などについては、当時それに関わった佐藤功教授の著『憲法解釈の諸問題』の中で、学究としての立場から要領よくまとめられていた。
憲法は国の政治、行政や国民の権利義務の基本原則を定めたものであって、法治国家においては、すべての法律制度は憲法を基礎にして成り立っている。したがって、憲法は国政や国民思想統一の方向を決定する指針であるべきである。ところが、講和条約成立以来現在に至るまで、憲法それ自体が国論対立の焦点となり、国論を二分する形で争われていることは問題である。
こうした観点から、日本国憲法についての問題点と、日本国憲法の成立とその思想的背景について、新しい観点から論じた著書等もできるだけ勉強し、それを整理して国民的なアィデンティティを確立する道を探求してみたいと思った。
kenpo | TOP |
天 皇 の 地 位
日本がポツダム宣言を受諾するに当たって最も重大な問題は、国体の護持、すなわち天皇制を維持できるかどうかということであった。政府はポツダム宣言を受諾するに当たっては、「天皇の統治の大権に変更はないことを条件として受諾する」と回答した。しかし、連合軍側は直接その条件には答えず、「日本の統治の権能は連合軍最高司令官に従属(subject to)する。将来の天皇の地位は自由に表明された日本国民の総意によって決定されるべきものである」と発表した。このため、最高戦争指導会議及び閣議は紛糾し、決定ができなかった。天皇は「たとえ連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意志によって決めて貰って少しも差し支えないと思う」と仰せられ、鈴木総理大臣は天皇の裁断をお願いして、無条件降伏となって終戦が決定したといわれる(木戸文書)。
連合軍の極東委員会では、ソ連、オーストラリアなどからは、天皇制の廃止、天皇の退位あるいは戦犯として裁判すべしなどとの意見が主張されたともいわれるが、マッカーサー総司令官は米国政府の方針によって、天皇の在位を認め、平穏に占領行政を行い、民主化の徹底を行う方針を決定した。それは昭和二十一年一月二十五日マッカーサー元帥から合衆国陸軍参謀総長アイゼンハウァーに打電した公信の中に、「彼(天皇)はすべての日本人を統合する象徴である。もし彼を破壊するならば国民が崩壊するであろう」と述べていた。
日本国憲法第一条は「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定された。天皇制については、この象徴の意味と、明治憲法の第一条、第三条との関係について、いろいろ議論が行われている。
明治憲法においても、国体と政体の関係についての憲法論争が、上杉慎吉博士と美濃部達吉博士をそれぞれ代表格として行われていた。天皇は統治権の主体であるという上杉説と、統治権の主体は国家であり、天皇は統治の機関であるという美濃部達吉博士の機関説の対立であった。
主権と統治権の概念は、ドイツ帝国憲法における皇帝の地位についての憲法学説として成立したものであり、明治憲法はドイツ帝国憲法を手本として制定された。しかし、日本の天皇の地位は、日本の長い歴史と国民の皇室に対する尊崇の国民意識上に成立したもので、ドイツ皇帝の地位とは同じでない。日本の憲法上の天皇の地位は憲法が制定されてはじめて決定されたのではない。したがって、ドイツ憲法論を参考にして説明することはできても、それで天皇の地位を決定できるというものではないであろう。
天皇を現人神(あらひとがみ)ということは、天皇ご自身も一般国民の意識においても、キリスト教の神(ゴッド)、ユダヤ教のヤーヴェのような全知全能の絶対神という観念とは全然別のものである。我が国の神観では、人でも自然でも霊妙讃美すべきものや尊崇するものを「かみ」といって崇敬しているのである。それを西洋の「神の概念」と比較して、神であるとかないとかを論じても意味がないのではあるまいか。
我が国の天皇は歴史的にみても、国民の尊崇を受け、最高の権威の地位にあったが、政治の実権を持ち、直接統治の権力を行使されるということはむしろ異例のことであった。明治憲法においては、天皇は統治権を総攬(そうらん、一手に掌握すること)するとあるが、主権という言葉は用いていない。天皇は憲法の定めるところによって、国務大臣の輔弼(ほひつ)を受け、実質的な政治は政府が責任をもって行い、内閣の決定は必ず裁可された。天皇が国事について内閣の決定を待たずに意志を表明され決定されたのは、二つの場合がある。二・二六事件において、総理が生死不明の上、軍の首脳が叛乱軍の鎮定を決定できなかったときと、終戦の決定に際して、内閣や軍の内部に対立があって決定できない絶体絶命というときに、国民のために天皇が裁定された場合であった。それも事実上の決定はされたが、閣議にはかって決定の上裁可を受けるという法律上の手続はとられている。
我が国の天皇の地位は、君民一体の歴史の上において成立しているものであって、君主と国民を対立的存在と考えて、その権力を調節するために、憲法を制定した西洋諸国の憲法の概念では解釈しきれないものがある。
第一条の「象徴」は、そうした意味からしても、法律論よりは国民精神の問題なのではあるまいか。そして、憲法に定める天皇の地位権限は、天皇の国事上の行為についての具体的事項を定め、その行使の手続について規定することによって、天皇の名を利用した専制が行われることを防ぐことに、法律上の意義があるのではあるまいか。
占領政策の初期においては、GHQがその政策決定に当たって、マッカーサー元帥をはじめ多くの占領政策の立案者は、天皇制こそ軍国主義、侵略主義の根本であると信じていたようである。占領後間もなく、天皇がマッカーサー元帥に訪問を申入れられた時には、外国の君主が革命や敗戦の場合にその生命と財産の安全のために亡命することを願うように、天皇も身の安全を願うために来訪されると思ったといわれる。ところが、天皇は「自分は戦争について一切の責任を負う。自分の一身や皇室の財産はどうなってもよいから、国民を飢餓から救うために食糧を供給していただきたい」と申され、マッカーサー元帥に深い感銘を与えたと伝えられている。その後もしばしば御面談を重ねるにつれて、天皇の本当の無私公正な御徳と、日本の天皇制というものがだんだん理解されたといわれている。
われわれ国民には、満洲事変後の軍の実情や政治の実際については、戦後各方面の資料や研究が発表されて、はじめて明らかになったことも多い。戦後間もなく発表された『西園寺公と政局』(原田日記)をはじめ、いろいろのものが発表された。そして、最近出版された勝田竜夫著『重臣たちの昭和史』等が「明治憲法の立憲政治を最も純粋に守り、支那事変や日米開戦を防ぐことを念願し、平和を希求されたのは天皇であり、陸軍の一部をはじめ、侵略主義者は <天皇親政>とか <国体の護持>とかいって満洲事件、二・二六事件や、支那事変を企て、国民を指導し、大東亜戦争に至ったが、このナチス流の国家社会主義的独裁政治は最も天皇の意志に反したものであった」ということを事実に即して述べている。こうしたことは、戦後われわれ国民に明らかになるとともに、占領軍関係者にもしだいに理解されてきたのであろう。
重光外相が後にマッカーサー元帥と米国で会見した際に、「憲法の有無に拘らず、また憲法が天皇の御地位についてどのような表現文字を使用するに拘らず、天皇は日本国民の運命に関しては皇祖皇宗に対し、更に上天に対し絶対の責任を自覚された方である」と語っていると伝えられたことでも知られる(昭和三九・九・一四読売新聞)。
天皇は皇后とともに、昭和四十六年英国をはじめ西欧各国を訪問され、英国王室をはじめ各国において元首として鄭重に歓迎を受けられた。特に、昭和五十年十月アメリカを訪問された際は、アメリカ大統領をはじめ多くの人々は最高の元首としての礼をもって待遇している。これによって、天皇の国際的地位は明確になった。
神 社 と 宗 教
天皇の地位とともに、西洋人の観念の法律論で理解が困難なものが、日本の神社である。明治憲法以来、学者の間では西洋の宗教の概念によって、神社が宗教であるかどうかを論議し、明治憲法下では法律上は神社は宗教でないとして取扱っていた。
日本国憲法下では占領軍の指示によって、行政上は神社は宗教法人として扱われている。日本の神社には山や川の自然を祀ったものから、神話の中の神々や、歴史上の実在の人を祀ったものといろいろあるが、その最も、一般的な神社である氏神様、あるいは鎮守様といわれるものは、村落共同体の自然と伝統の心を人や自然に象徴して祀っているもので、住民の共同体意識と伝統の結びつきによって、その信仰が成立していた。
我が国で神社問題をむずかしくしているのは、明治の西洋文物輸入のとき、学者が西洋のゴット(God・Gott)を神(かみ)と翻訳したために、ゴットと日本の神(かみ)と同じものと考える風潮が学者等の間で一般的になった。神とゴットはたしかに通ずる面はあるが、人間との関係では大きな違いがあることを見のがしてはならない。ゴットと人間との関係には断絶があって、人間はゴットにはなれない。人間とゴットには断絶があるために人は神との契約によって、その関係を確かめなければならない。聖書は神との契約の書で、旧約と新約があるのはそれである。
我が国の神(かみ)と人間との間は断絶せずに連続性がある。人間でもすぐれた者は死ねば神となることが怪しまれなかった。我が国では仏教の方でも、人間は死ねば仏となって祀られている。神仏習合というのも、人間が神仏に通ずる可能性を認めるところから来たものである。それをユダヤ教やキリスト教の一神教思想で翻訳し解釈しようとし、神(かみ)とゴットを同じとし、我が国の神代(かみよ)をゴットの時代と考えるから混乱が起こるのである。
西洋の近代国家の信教の自由は、長い西洋の歴史において、ユダヤ人を宗教で差別・迫害したり、一六、一七世紀の宗教改革において、新教と旧教の激しい抗争の結果、国家は信教の自由を定め、国法の下においては信仰する宗教によって差別をしてはならないということであって、ある宗教を禁ずるということではない。
昭和二十年十二月のGHQの指令によって、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止が命ぜられた。そしてこれに基づいて、日本国憲法二〇条において
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
と規定され、神社の社格は廃止され、国や地方公共団体が神社に財政的支出をしたり、宗教教育や宗教活動を行ってはならないと定めた。しかし、国民の神社参拝を禁じたり、神社を崇敬することを否定しているのではない。国家は総ての宗教を平等に扱うとともに、宗教の信仰によって国民を差別してはならないことを規定しているのである。
日本では、仏教の伝来の時に崇仏・排仏が政治的に争われたことがあったが、聖徳太子が仏教の本義を明らかにし、惟神(かんながら)の道と調和した。皇室では神社の祭祀が行われるが、歴代の天皇の中には深く仏教を信仰された方もあり、国民の間でも神社の崇敬と仏教の信仰は調和されていた。ただ徳川時代に切支丹宗の禁制が政治的に強く行われた歴史はあったが、神社崇敬は西洋の一神教とは違ったものであった。
実際は、戦後も公共の建築物等の起工式や竣工式に、業者主催とかいろいろの名目で神事は行われている。最高裁の判決では、それは宗教行事というよりは、慣習的の儀礼であるとしている。
日本人は子供が生まれた時には神社にお参りし、結婚式は神前で式を挙げたりする。そして、同じ人が葬式は寺院で仏式で行って矛盾を感じない。一般家庭では神棚と仏壇を祀って、それぞれの形式で礼拝しているのが普通である。西洋人からは理解できないことかもしれない。日本人は無宗教だとか日本教だとかいわれているようだが、日本人の宗教意識は、キリスト教やユダヤ教、イスラム教等の一神教思想とは違ったものである。
GHQは日本の軍国主義は神社神道に基づくものと思って、神社信仰を廃止することが、日本の軍国主義、国家主義を滅却することだと思った。一神教の宗教を信じているアメリカ人がそう考えるのはやむを得ないが、キリスト教の信仰もなく、日本の神社も碌(ろく)に参拝したこともない日本のインテリがそれを主張しても意味がないのではあるまいか。一般国民の神社に対する意識は、戦前も戦後も余り変わりないのではあるまいか。ただ、戦後は一般に金銭万能で信仰心が薄くなっただけであろう。
GHQから神社神道禁止令が出た当時、学習院の板沢武雄教授が「その指令は顕語をもって幽事を取り扱うものでありまして、譬(たと)えていうならば、鋏(はさみ)をもって煙を切るようなものと考えます」と語ったことが、木下道雄著『宮中見聞録』に記してある。これは信仰や祈願は人々の心の中のことで、政治や法令の問題でないことをいっているのであろう。
学者は西洋の宗教についての法律学説をもって日本の神社を論じているが、国民は日本人の伝統の意識によって、それぞれの心しだいで神社を参拝しているので、西洋の宗教概念で定義づけようとしても、正に鋏で煙を切るようなものであろう。
近年、靖国神社問題がやかましく論ぜられ、靖国神社を国家が祀るのは憲法違反だと、やかましく論じている者もある。しかし、一般国民は靖国神社が宗教であるとかないとかを問題にしているのではない。戦後も戦前と同じく、戦死者は仏教徒でもキリスト教徒でも、全部靖国神社に神として祀っている。その時はGHQからもキリスト教徒からも異論はなかった。国民は国家のために戦死をすれば、靖国神社に祀るといって出征兵士を送り、兵隊さん達は国家のために召集され「靖国神社で会いましょう」と誓って出征し、国のため命を捧げたのであるから、遺族は靖国神社にお詣りし、国民として祭祀を行うことは当然だという意識であって、宗教信仰かどうかを問題にしているのではない。我が子を戦死させたり、親を戦場で失った人達又は戦友が戦死した旧軍人の心情を尊重しなければなるまい。政治や法律の問題として争うことではないのではあるまいか。
民族学者で、終戦当時の枢密顧問官であった柳田国男先生は「日本人の死後の観念、即ち霊は永久に国土のうちに留って、そう遠くへはゆかないという信仰が恐らく世の初めから少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである」と述べ、「少なくとも国の為に戦って死んだ若人だけは、何としても之を仏徒の謂(い)う無縁ぼとけの列に、疎外して置くわけには行くまいと思う」と書き遺された(柳田国男『先祖の話』)。
基 本 的 人 権
近代国家は基本的人権の保障を憲法の最も重要な原則としている。基本的人権はアメリカの独立宣言や、フランス革命の人権宣言において、天賦不可譲の権利として宣言され、近世の憲法は基本的人権を保障することを、その最大の目的として制定された。
基本的人権の保障は近代国家の基本的理念であるが、その具体的内容はそれぞれの国家で歴史的に発達してきたものである。中世以来の封建的な専制支配に対し、産業革命による経済の発達と都市の発展を基盤として、市民階級の力が増大し、経済的活動の自由、所有権の絶対性、人身の自由、信仰と良心の自由等の人権の自由が保障されるようになった。それとともに、国家権力から国民の自由を守る実際的な組織として、三権の分立と国民の参政権を確立する議会制度、司法権の独立のための裁判制度、及び法律による行政の原則等の近代制度が発達した。
その後、社会経済の発達が進むと、資本家階級の力が強大となる一方では、無産者や労働者階級の増加と、失業や貧困の増大という社会階級の対立や社会問題の発生により、自由放任の経済制度の改革が進められた。
第一次大戦後はワイマール憲法にみられるように、社会的・経済的権利の保障として、所有権の制限や労働権の思想が発達し、勤労の権利、労働者の団結権などが新たに保障された。また、ソ連の一九三六年憲法では、新しい社会主義体制の下で貧困よりの自由、資本家の搾取の廃止、労働の権利と生活の保障を重点とする社会権が規定された。
このように、基本的人権の保障は近代国家において最も重大な原則であるが、それは長い歴史とそれぞれの国家において、社会・経済の発展に対応して国民の努力によってしだいに発達して来た歴史的成果である。したがって、それぞれの国家の経済的・社会的基盤と国民の自主自立の思想的・政治的自覚が必要である。法律制度はその基盤がなければ、法律だけ制定しても、それは空文に終わるおそれがあることは、世界各国の歴史がこれを物語っている。
我が国の明治憲法は、当時のドイツ帝国憲法を模範として制定され、立憲君主政治を行った。国民の基本的人権についてもこれを規定したが、当時の我が国の実状や国民の政治的自覚に対応して、その保障は多く法律の範囲内における人権の保障であって、法律をもって制限できる一方、緊急勅令や非常大権の規定もあった。また、政治、行政、司法の制度も、基本的には三権分立の議会制度をとっていたが、選挙は制限選挙であり、議院内閣制度も確立していなかった。また、行政や司法の制度においても、官権が強大で、国民の権利や自由の保障は十分とはいえなかった。
日本国憲法は基本的には民主主義の理念によって、人格の尊厳と倫理的自律という理念によって規定された。基本的人権の具体的な条文については、当時のGHQのケーディス大佐を中心にして、僅か二週間の短い期間に、ワイマール憲法を手本として原案を作成したといわれるように、その内容は世界各国の憲法に比べても、最も進歩的といわれる憲法である。それだけに、当時の我が国の社会経済の実情と、国民の法意識との関係において多くの問題があったことは否定できないことであり、その実施にはいろいろと困難があったことは当然である。
憲法の基本的人権の規定を国民の実生活の上に実現するためには、それに必要な関係法令の制定や改廃を行わなければならなかった。このために必要な法令は、憲法の補則に憲法施行前に制定してもよいとあって、大急ぎで、選挙法、議院法、内閣関係法、刑法や刑事訴訟法をはじめ、民法や各種の法典を改正することが必要であった。しかし、全面的改正のむずかしい民法や刑法については、憲法に抵触する条文のみの一部改正が行われた。また、労働関係法規や教育に関する法令は、占領軍の指示によって制定された。しかも、それらはすべてGHQの承認を受けなければならなかった。それを短時日で行うのだから、無理があったのは当然である。それに伴う司法、行政の職員の任免や訓練も、当然行われなければならなかった。
さらに、法律をつくっただけでは、現実に国民の教育の権利や健康で文化的な生活は実現することはむずかしい。それを実施するには多大の国費が必要である。また、県や市町村の財政が伴わなければならない。さらに、勤労の権利が確保されるには、企業の発達が必要であり、経済の繁栄がなければ国庫や地方団体の財政も確立できない。
憲法の条文や憲法解説書を読むと、我が国は、新憲法の制定によって一世紀も一足跳びに進歩し、二十二年五月三日を境に、国民の自由と権利が保障され、民主国家が出現したように説かれている。しかし、戦後の日本は、前に地方行政の章で述べたように、政治も行政もGHQの支配を受け、占領軍の武力とその絶対的権力の下に治安が維持されている状況であった。そして、国土は一面の焼野原で、住むに家なく、食糧は極度に不足し、一人二合一勺の配給も代用食となり、遅配、欠配となる状態で、食糧管理法の規定は厳重だが、買い出しに出なければ家族は飢える。物価統制令は厳格でも、全国至るところに闇市が開かれている。労働者の団結権や団体交渉権は保証されても、このために、かえって各地に争議が起こり、企業は倒産したり、倒産一歩手前に追いこまれるものも多かった。倒産すれば資本家は破産し、労働者は失業の他はないというのが実情であった。
我が国ではとかく、憲法をはじめ法律を論ずる時は、西洋の学説によって、法律の理論を主張し、現実の社会事情やそれが国民生活において可能かどうかということは考えられていない。そして、実際問題を論ずるには自分に都合のよい条文だけを主張し、あるいは法律を無視しても自分達の利益を多数の力によって主張したり、強要したりしている。法律論と社会経済の実体の関係を明確にした上で法律を守るという自覚が足りない。
国民の自由と権利が実際生活において保障されるためには、憲法をはじめ法制度がつくられただけでは実現しない。最も根本的なことは、国家の独立と安全が確立され、経済生活が安定し、さらに国民の社会道徳と遵法精神が健全でなければならない。
西洋の法秩序の基礎には、キリスト教の神との契約の信仰による契約尊重と、社会連帯の精神的秩序があり、これによって個人の自由と権利と社会秩序が調和し、民主主義の法秩序が維持されるのである。
我が国においても聖徳太子が、当時の大陸文明を輸入し、新しい統一日本の国家の建設を目ざしたが、その基本として十七条憲法を定められるには、仏教及び儒教等をとり入れて国民を教えるとともに、政治・行政の責任者である朝臣や役人達の心を正し、責任を重んずるように戒められた。
明治憲法をはじめ法制度を整備し近代国家を建設するに当たっては、教育勅語によって、国民教育と社会道徳の基礎の確立を図った。
ところが、日本国憲法の制定に当たっては、教育勅語を廃止したが、それに代るべき、国民教育と社会道徳の基本を確立する教えがない、また、民主主義という題目だけが与えられても、それを実現する国民教育の方法論がない。憲法には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」、「権利と自由は濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と規定し、さらに教育の基本としての教育基本法を制定し、法律によって、国民教育と社会秩序の確立をなそうとした。
そして一方では、我が国民精神や社会道徳を涵養するための歴史教育や修身教育を禁止し、儒教や仏教の道徳思想や伝統を国民教育から排除しようとした。
法律の力だけでは、国民の人間性を高め、社会道徳を向上することはむずかしいのではあるまいか。
戦争の放棄と軍備の問題
日本国憲法の特色であり、かつ最も現実の憲法問題となっているのは、交戦権の放棄と戦力を持たないという規定である。
憲法第九条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定している。
近代国家の憲法において、戦争の制限や国際紛争を平和的に解決するための規定を設けた例もある。国際間においても、第一次大戦後は国際連盟が設置され、また不戦条約の締結が行われ、国際紛争の解決や戦争の防止についての条約がある。
第二次大戦後は国際連合がつくられ、国際紛争を戦争によらないで解決するための協定によって、現実の紛争解決に努力している。しかし、国権の発動たる戦争の放棄を一方的に規定し、戦力の保持をしないことを宣言し、かつ交戦権を放棄した規定は、主権国家の憲法には他に例を見ない。
この規定はアメリカの占領政策により、我が国の非軍事化を徹底し、将来世界平和の脅威となることを阻止するためのものであったことは明らかである。そして、当時の国際情勢において、米・ソの協調とその軍事力によって世界平和を維持できるという前提で、この条項を日本国憲法に規定させたものであることは否定できないであろう。
憲法改正案が国会で審議された際には、当時の議事録によれば、衆議院本会議で、共産党の野坂参三議員は、戦争には日本帝国主義者の行った不正の戦争と、中国あるいはアメリカその他の連合国が行った正しい戦争があると説明して、「この憲法草案は戦争一般の放棄という形でなしに、われわれはこれを侵略戦争の放棄、こうするのがもっと的確でないか」という意見を述べている。
東京大学総長南原繁氏は貴族院本会議で、「新たに更生しました民主日本が、こんどの不法な戦争に対する贖罪(しょくざい)としてばかりでなく、進んで世界の恒久平和への日本民族の新たな理想的努力を捧げる決意を表明するものとして、われわれの賛同惜しまざる点でごさいます。……しかし、遺憾ながら人類が絶えない限り戦争があるというのが歴史の現実であります。したがって、私どもは……少なくとも国家としての自衛権とそれに必要な最小限度の兵備を備えることは当然のことでございます」と述べ、この国家の自衛権を放棄することは、「日本は永久にただ他国の好意と信義にまかせて生き延びようとする、あの東洋的な諦め、諦観主義に陥る危険はないのか。むしろ進んで人類の自由と正義を擁護するために、たがいに血と汗の犠牲を払うことによって、相共に手をつないで世界恒久平和を確立するという積極的理想は、かえってその意義を失われるのではないかということを憂うるものであります」と述べている。
このように、当時は第九条に対し、共産党及び進歩派からは反対の意向の表明があった。
また、近年はこの第九条の成立について、幣原首相がマッカーサー元帥に提言したとか、あるいは話合いで、天皇制を維持するために、その選択の中で決定されたとか、あるいは反対にマッカーサー元帥から強制されて、幣原首相は涙をのんで受け入れたともいわれている。
最近は、当時のGHQにおいて憲法草案の起草者のケーディス大佐が日本の記者のインタビューにおいて、天皇制の廃止といっているのは「天皇制のシステムのことで、天皇の身柄あるいは天皇の在位については、アメリカの統合参謀本部の指令書で決定していた問題で、天皇の在位と第九条とは全然関係がない」と言っている(『現代』昭和五六年八月号)。
いずれにせよ、憲法第九条はアメリカの占領政策によって規定されたことは明らかである。 しかし、これに対しては、我が国においても賛成の意見も強い。また、この条項によって戦後の我が国が軍備の負担を免かれて、経済発展に大きな効果をもったことも事実である。平和を希求し、軍備なしで、国家の安全と平和が保持されるということは人類の理想であり、古今を通じての悲願でもある。
しかしながら、世界の長い歴史をみても、現在の国際関係においても、この理想が完全に実現されることはむずかしい。
戦後においても、国際連合の努力にもかかわらず、なお地球上では方々で戦争や武力抗争の絶え間がない。戦争は資本主義の産物で、社会主義国家には他国に対する侵略や戦争はないという人達もあったが、社会主義国家の本山ともいうべきソ連によって、戦後方々に戦争が起こされたり、その衛星国においては、ソ連の軍事力によって、国民の独立運動や労働運動が圧殺されているのが現実である。
アメリカの占領政策は占領の初期においては、日本の非軍事化を徹底することによって、米国の安全も世界の平和も維持できると考え、憲法第九条を制定させたのであった。しかしその後間もなく、一九四八年のベルリン封鎖があり、中国においては、毛沢東の共産党がソ連と結び、国民政府を中国本土から追放し、米・ソの対立はしだいに激化してきた。
そうした情勢の変化の中で、米国は我が国を太平洋戦略の一環に組み入れて、その前線を守るため、まず重化学工業施設の賠償指定を解除し、その復興を図る政策を進めるとともに、再軍備によって、我が国の防衛力の強化を要求するようになったのである。
我が国は、当時の国情から経済復興を第一に考えて、吉田首相は憲法の規定を楯に、できるだけ再軍備の要求を拒否する方針をとり、国民の大部分もその方針を支持した。
そして、少しずつ米国の要求に応じ、まず警察予備隊、警備隊次いで自衛隊としだいに強化された。そして、アメリカとの間に昭和二十六年サンフランシスコ講和条約が成立し、我が国の独立が認められた。これとともに、日米安全保障条約が締結され、我が国に米軍が駐留することになるとともに、我が国の防衛力の強化が求められた。これに対し、憲法違反だとして反対論が起こるとともに、憲法改正の問題が起こり、国論が対立するようになった。
戦争はやってはならない。特に、日本は国際平和がなければ、国民経済も国民生活も成立が困難である。人類全体としても、米・ソ両大国が大量の原爆をもって対立している現状において、全面的な原爆戦争となれば、地球上の全人類の絶滅という危険さえあることが予想されるときに、平和が必要なことは人類全体の念願である。そして、地球上から核兵器を廃絶するとともに、国際平和が確保されることは、我が国民のすべてが願っていることであり、人類の悲願でもある。
問題はいかにしてそれが実現できるかということである。原爆反対、軍備反対と絶叫するだけでは実現できまい。日本が軍備を持たないということで、それが達成できることでもない。まして、日本国憲法に規定されているから安全であるということではない。
軍備を持つということ、あるいは自衛力を保持するということと、戦争を行うということは次元の違う問題である。江戸時代のような鎖国の時代ではなく、国際関係を離れて生存できない我が国が、いかにして現実の国際情勢の中で国家の独立と国民の安全を保持できるかという現実の問題である。そして、具体的にどうしたら戦争の防止と国際平和を実現できるかということが、現実の国家としての最大の課題であり、国民の任務でもある。しかも、現在の平和問題、核廃止の問題の中心は米・ソ両大国の対立とその核装備が問題であり、なかんずく日本の安全に最も大きな関係のあるのは、ソ連の核軍備とその政策にあることは否定できないことであろう。いかにその脅威を去って、我が国の独立と安全を確保することができるかという現実の政治問題である。
憲 法 改 正 問 題
昭和二十九年十二月、吉田内閣に代って鳩山内閣が成立した。鳩山内閣はソ連との外交関係を回復した。それとともに、一方では憲法改正について調査研究するために、三十一年に憲法調査会設置法を制定し、憲法調査会を設置した。これに対して、社会党、共産党及びこれに同調する学者等は、憲法調査会は憲法改正を目的とするものであるとしてこれに反対し、憲法問題研究会を組織し、憲法擁護のために国民連合を組織し、憲法改正反対運動を起こした。
憲法調査会を中心に、憲法についての調査が進められる一方では、現実の政治問題として岸内閣の下で安保条約改正の問題が起こった。前に述べたように、講和条約成立とともに、日米安全保障条約が締結され、我が国の防衛のため、米国軍隊が我が国に駐留し、我が国は米軍に基地の提供と防衛費の負担等の義務を負うことになった。これに対し、当時一部においては全面講和論が主張された。全面講和は理想ではあるが、当時の国際情勢では成立は困難であり、それは結局占領政治の継続になるとして、吉田内閣は占領行政を終結し、早期に独立を回復するために、米国等と講和条約を結んだのである。全面講和論者はソ連、中国等を除外して講和を結ぶことは戦争につながると主張し、安保条約は憲法違反であるとして、憲法擁護運動が政治闘争へと発展した。
その後、安保条約成立後一〇年の更新期に当たって、岸内閣は日米両国の相互協力による安全保障条約へと改定を進めた。これに対し、共産党を中心とする親ソ反米勢力及び憲法改正反対勢力や反体制学生等が一体となって、安保反対、憲法擁護、戦争反対をスローガンに、国会をとりまく戦後空前ともいうべき反対運動が起こった。
昭和三十五年、安保改訂条約は騒然たる反対の中で国会で議決され、批准された。そして、岸内閣は退陣して、同じ自民党の池田内閣が成立した。
池田内閣は、憲法改正問題は政治課題としては棚上げの形をとり、実質上は安保条約によって、我が国の防衛と安全を保持するとともに、所得倍増計画を提唱し、国論を転換した。そして、国を挙げて産業の発展、経済成長を目指し、経済の高度成長時代に入った。これは当時の我が国策としては賢明なやり方であった。
憲法問題は、基地問題等で裁判事件や学生運動の中で時々問題にはなったが、国政の場においては、政治課題としての鋭い対立が回避された。
憲法調査会はこうした情勢の下においても、専門委員を中心に憲法成立の事情や改正の問題点について調査を進め、三十九年に最終報告を提出した。
この報告書の基本的な方向は次のように要約された。
(1) 日本国憲法は日本国民みずからが自主的に制定する憲法でなければならない。
(2) 憲法は人類普遍の原理とともに、日本の歴史、伝統、国民性に適合する憲法でなければならない。
(3) 世界の動向に対応する姿勢に立ち、かつ現実的実効的憲法でなければならない。
このように、きわめて常識的・一般的な意見を憲法改正の基本的方向として提示し、各学者の意見や調査の結果を報告したが、具体的な改正についての統一案はまとめなかった。
憲法問題研究会の意見は、岩波新書の『憲法読本』として発表されている。これは憲法のそれぞれの項目について、各学者が憲法改正に反対の立場で意見を述べたものである。これらの諸意見については、学者によって多少の相違はあっても、同書の中で我妻栄教授が述べているように、基本的には日本国憲法の民主主義・平和主義を守るためには、現在の状況において憲法改正をすべきでないということに要約される。
憲法改正論といっても、戦後の民主主義の成果を否定したり、戦前の帝国憲法を復活しようというのではない。日本国憲法は占領軍の軍政下において、きわめて短期間にGHQにおいて作成された草案に基づき、国民の自由の発言もできない時代に、十分な調査審議の時間もなく成立したものであるから、いろいろと問題があるのは当然である。したがって、我が国が独立を回復した機会に、自主的に憲法を調査研究し、維持すべき条項はこれを保持し、改正すべきものは、憲法の定める改正の手続によって改正し、我が国の歴史と国民思想を基盤として、国民の総意によって憲法を改正しようということは当然のことではあるまいか。
欧米各国、特に憲法によって国家が成立しているアメリカ合衆国でも、憲法の定める手続によって憲法改正がしばしば行われている。これによって、憲法は時勢の変化進展に適応し、政治の保守化を防ぎながら、一方では暴力革命を抑止して、国民意識の統一と国家の秩序の安定を維持している。
ところが、日本国憲法は占領下という特殊な事情の下に、占領軍の権力によって制定され、その改正問題が米・ソの対立による我が国の再軍備という問題で、憲法九条を中心として起こった。このために、共産主義者やそれに同調する進歩派と称する人達は、ソ連と思想的に結び、憲法改正反対を反米と非軍備化運動と結合して、革命運動として展開したところに問題を複雑にしている。
したがって、我が国において憲法問題を解決するためには、憲法制定の事情とその思想的背景を明らかにし、まず国民思想の統一をはからなければならないであろう。
近年、我が国の憲法制定の事情やその思想的背景について、我が国の占領政策に関係し、憲法制定に当たったニュー・ディーラーのユダヤ人等によって憲法制定の実情が説明されるとともに、我が国の憲法を中心とした思想運動についての批判や忠告が提示されている。
その代表的なものが、終戦時にルーズベルト大統領のブレーン・トラストの一人として、対日戦後処理案の作成や憲法制定に関係し、戦後も十数回も来日し、日本の研究をしているユダヤ人の長老(ラビ)モルデカイ・モーゼの著『あるユダヤ人の懺悔――日本人に謝りたい』(久保田政男訳)である。
私はこれを読んで、ワイマール憲法と日本国憲法との関係や、マルクス主義と日本国憲法成立の事情等について教えられることが多かった。そして、われわれの知らなかった占領政策の一面を知ることができるとともに、近代西欧の思想についてのユダヤ人の影響、特にマルクス主義とユダヤ思想の関係について教えられることが多かった。それとともに、われわれは西洋近代思想について研究するについては、ユダヤの思想と文化を研究しなければならないと思った。
戦後の我が国の教育や国民思想について批判しているマービン・トケイヤの著『日本病について』『ユダヤ人の発想』(いずれも加瀬英明訳)等や、日本人でユダヤ思想の研究家である山本七平氏の著書『日本人の知らなすぎる---聖書の研究』『日本的発想と政治文化』をはじめ同氏の著書や、イザヤベンダサン著・山本七平訳『ユダヤ人と日本人』『日本教について』等もできるだけ読んだ。しかし、旧約聖書やタルムードについての知識もないし、それを勉強する能力もないが、長年考え続けてきたマルクス主義思想運動と日本国憲法との関係について、自分なりに納得できる知識を得ることができた。
ユダヤ人というものは、われわれ日本人の観念による民族でも国民でもなく、旧約聖書とタルムードによって、神との契約による宗教団体である。ユダヤ教の信仰によって団結し、国家を失いながらも二千年の歴史を生き続け、その宗教のためにキリスト教を信ずる西洋各国民から迫害と差別を受けながら、その信仰を維持してきた宗教団体で、その国家や憲法についての観念は日本人の言う国家や宗教の観念とは、随分と違うものであることを知った。
日本人は明治以来、西洋の憲法をはじめ法律を輸入しこれを学んだが、それが成立した国民の歴史や宗教及び社会生活の実質と離れて、抽象的な知識として取り入れている場合が多いのではあるまいか。何よりも大切なことは、我が国の国民生活と国民意識を基礎において憲法や法律制度を考え、国民的コンセンサスを確立することではあるまいか。
nihonjinnoho | TOP |
西洋の法律の輸入について
会田雄次教授は『日本人の意識構造』の中で、「日本人の近代的学問はヨーロッパの概念を使い、その方法によってうちたてられている。自然科学ならそれでよいだろうが、人文科学、社会科学となると、そうはいかない。いかに論理的に整然と理解したつもりでも、そういう概念のもとになった実態をはっきり把握しないと、とんだ誤解となってしまう。」
「ヨーロッパのやり方を正しく学び、正しく用いるにしたところで、そんな尺度で日本の歴史が測れるかどうかなどとはもちろん考えない。概念と言葉が同じであれば同じだと簡単に考えている。それを支えている人々の深層意識が異なれば、同じ意味に見える言葉だって全然ちがうことなど、だれも思ってもみない」と述べている。
自然科学であれば、概念内容や理論の正否を実験によって確かめ、学問と事実の関係を正しく認識できる。また、その間違いや誤解を実際に当てはめて正すことができる。ところが、法律や経済のような社会生活の現実や生活の規範などは、勝手に実験してみることはできない。時間の経過によって後から結果によって判定するしかない。
法律はそれぞれの国家において、共同生活の規範として制定されたのであって、その国の歴史と国民生活を基盤として成立している。そこには、人間の社会において共通する理性と秩序としての普遍的法則もあるが、一方それぞれの国の社会組織や生活の歴史からくる国民性の差異があるのはむしろ当然である。西欧の近代法はギリシャの理性の哲学と、ローマの法秩序の精神によって成立したローマ法を基礎としながら、<ローマ法によって、ローマ法の上に>というように、それぞれの国民によって、その時代の法律学が発達している。したがって、外国の法律や法律学を学び、それを普遍的なものとして我が国の法律を作ったり、法解釈を行っても、そこには矛盾やいろいろの不都合が生ずるのは当然である。
前にも述べたように、我が国の法律は明治時代には初めフランス法を、後には主としてドイツの法律と法律学を手本とした。しかも、条約改正という目的があったので、西洋諸国から見ての文明国の法律というものでなければならなかった。第二次大戦後は敗戦によって、GHQの絶対権力下で憲法はじめ諸法律の制定あるいは改正が行われた。
形式は日本政府が法律に定めた手続によって作ったが、実質は我が国の社会生活や伝統について、十分の理解や知識のない占領軍の命令によって作られたものが多い。
我が国の法律や法思想が外国からどのように輸入され、どのように我が国の法律や法律学となったかについては、團藤重光博士がその著『法学入門』の中で、簡明的確に述べられている。この著書は、博士が東京大学の定年を前に、一か年間の最終講義として、その薀蓄(うんちく)を傾けて講義されたものを出版されたもので、入門といっても法律学の仕上げともいうべき名著であると思う。
これを勉強することによって、我が国の法律学者がいかによく外国の法律学を勉強し、その時代に最も進歩的と思われるものを輸入したかが分かる。これらは、我が国の法律や法律学を国際水準に高めた面では大きく貢献した。その一面、我が国の法律や法律学を外国の発達に対応させるのに急であって、我が国の社会経済の実態や、国民性との関係が十分考察されず、外国の法律や法理論をそのまま我が国に適用しようとしたり、外国の既成の学説を権威として外国の理論が正しいという前提で、我が国の法律や法思想を批判する態度が多かったということを免れなかったと言わなければならない。
外国の法律や制度を輸入し、法律学を知識として学ぶことには器用でも、それが成立した社会経済の実際や国民性や国民の法意識が、我が国とどれだけ違っているかということの認識が不足していたのではなかろうか。
法律と社会規範
人間の共同生活を規律し、社会秩序を形成しているものには、国家の定めた法律のほかに、ドイツの社会法学者エールリッヒが <生ける法>といっている道徳・習慣・礼儀・宗教等、それぞれの社会の歴史の中で発達した規範がある。特に、我が国のように同じ国土の上に、同一の民族が長い間外国から離れて社会を形成してきた国においては、意識しようとしまいと、それが国民の共通の規範即ち常識となって国民生活を規律しているものが多い。そこに新しい文化として、外国の思想が普遍性をもつものとして入ってくると、一種のカルチュア・ショックを起こし、一方ではこれまで無意識に慣習として行ってきたものを知識として再把握し、外来思想と対立させたり、あるいはこれに同調しようとして、国民の間に思想的対立や抗争が起こる。特に、それが占領行政のように、権力と一緒になった新しい思想や法律が入ってくると、これに迎合便乗したり、あるいは意識的に反抗して、レジスタンスを起こしたりする。
この場合、厄介なことには、いわゆるグノーシス現象が起こることである。グノーシスはギリシャ語の <知恵>を意味する言葉から起こったキリスト教の一派で、紀元一〜二世紀頃、キリスト教をヘレニズムの思想と調和させるために、ヘレニズム思想をキリスト教の言葉で表現していたので、その主張がほんとうのキリスト教であるかヘレニズムの思想であるかはっきりせず、お互いに相手を異端ときめつけて争ったので、後に禁止された。
我が国のように、言語系統が西洋諸国と全く異なり、国民生活の慣習や意識も違っている場合に、西欧の思想や法律を翻訳して、これを日本語に置き換えて知識として学ぶとともに、一方で、日本の伝統の思想や慣習を外来の翻訳語で表現すると、その言葉と内容が混乱する。民主主義とか、民主的とか、あるいは自由主義だ、社会主義だ、国家主義だとかいっても、言葉だけ聞いていては、その本当の意味や概念内容は、伝統の思想でいっているのか、外来の概念によって述べているのか、本人も相手もあまりはっきりしないで、言葉だけで争ったり、同調したりしている場合が多い。
政党の代表などが、演説言葉で政治論や政策を述べていると、与党と野党の意見は天地の差があるようであるが、実際の本音で話せば、内容は余り変わらない。建て前は反対、本音は賛成という場合もあるようだ。対立のほんとうの原因は、政策や理論でなく、政治家の利害や面子の場合もある。したがって、利害関係の問題をいくら表の理論で論じても解決しない。結局両方話し合い、別席で話し合って、まあまあと足して二で割って妥協するほかないことも多い。また、政策や理論の争いよりは、人事の争いが深刻な場合も多い。
日本では、民主主義政治を唱えても、近代議会政治の原則である多数決ということが実際にはむずかしく、全員一致でなければ後にしこりを残す場合が多い。ユダヤの法のように、全員一致は無効であるということは、日本人には理解できないことである。
明治の法律制定に当たっては、前に述べたように、条約改正の必要からできるだけ西欧の法律制度に倣って法文がつくられた。そして、法例第二条には「公の秩序善良の風俗に反せざる慣習は法令の規定によって認められたるもの及び法令に規定なき場合にのみ、法律と同等の効力を有す」と規定し、原則として成文法主義をとっている。しかし、<社会のあるところ法あり>というとおり、日本には西洋の法律とちがった社会規範が多い。特に、人間生活を規律している民法関係については、西洋の法律制度とは異なる社会規範としての慣習法や慣習が多い。
明治の民法制定に当たっては、取引関係等については、西洋の近代法に倣って、物権法や債権法について規定しているが、それでも土地制度や小作関係、住宅関係などについては、我が国の実際の慣習によって行われたり、また一方では民法の原則と矛盾したために、特別法の制定を必要としたものも多い。また、入会権のように地方の慣行に委せたものもあった。
特に、親族法や相続法については、我が国の家族制度に基づいて、家の制度を尊重して規定した。
そして、法律の実際運用においても、法律行為の総則に規定された、民法第九〇条から九二条に定めた、「公の秩序、善良の風俗」の規定を活用して、国民の法意識と社会常識を尊重し、それとの調和を考えて適用された。
民法は、社会法学でいう裁判規範であって、官公署に対する届出等の手続規定は別として、実際の権利の争は裁判所に提訴されてはじめて法律が適用される。明治時代は文明開化といって、表面的には大きく変わったようでも、実際の社会生活、特に家族制度などは割合に安定していて、社会生活の秩序が保持されていた。
こうした問題について、川島武宜教授が『日本人の法意識』の中で、社会法学者として実例を挙げて詳細に説明しているように、我が国民の実際生活は民法の規定よりは、慣習や義理・人情によって行われていた。そして問題が起こっても、地域や職域の長老的立場の人の斡旋によって、話合いで解決され、裁判によって解決されることはむしろ異例であった。また、裁判所に提訴されても調停によって処理される場合が多く、我が国では調停制度が発達していた。
民法の改正と家族制度
家族はいかなる社会においても存在する人類の集団として、普遍的なものである。しかし、我が国の家は、我が国独特の歴史条件によって支えられて形成された日本文化特有の制度である。家は我が国の風土において米作農業の経営を基礎として、千数百年の歴史を経て成立したもので、農業耕作によって大地と結びつき、村落共同体を形成した。商家や職人の家もこれに準じて形成された。必ずしも血縁によって長男を中心としていたのではないが、家長があって家族を統制し、祖先の祭祀を行い、祖先から一貫した家系と家風をもっていた。そして、江戸時代には特に儒教の道徳思想の影響を受けた。
明治民法は西洋の個人主義制度の法制を輸入し、初めはフランス民法を基本としていたが、後にドイツ民法の制度をとり入れ、家長権を強化して財産権については家産を認めなかったが、家督相続制度をとり、戸主の地位を強くした。特に農家では、農業経営に重点を置いて資産の分散を防ぎ、土地の所有は村落におけるステータスであるとともに、村落共同体の政治的・社会的な責任をもたせ、むらの組織を強固にしていた。そして、明治維新以後昭和十年までに、我が国の人口は約二倍に増加したが、農家戸数は五五〇万から五六〇万位でほとんど変わらなかった。そして、二男・三男等が多くは都市に移り、商工業等の都市人口の増加となった。
占領軍は日本の軍国主義の基礎は土地所有制度と家族制度にあると考え、社会機構の変革をめざして、農地改革を徹底する一方で、家族制度の解体の政策を強力に行わせた。
日本国憲法制定に当たって、マッカーサー司令部の憲法草案の中に、現行憲法の第二四条の原案が英文で指示された。この英文草案は我が国の家族制度を根本的に改革し、家の制度、家長の地位を否定し、西洋の法思想によって個人の尊厳と両性の本質的平等を規定する内容であった。これについて、当時の外務省及び内閣法制局関係者はこの条文を日本文に直すとともに、できるだけ我が国の家の制度を維持するようにホイットニー民政局長等と交渉もしたが、結局英文の案に近い案文が二二条として国会に提出され、二四条として規定された。
第二四条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等) | 1 | 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 | |
2 | 配偶者の選択、財産権、相続、住所の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。 |
この案文に対して、衆議院の審議においては、「戸主権及び親権を抹殺して、家庭教育の励行が可能であるか」(北浦圭太郎議員=日本自由党)、「我が国が古来、その祖先から代を逐って繋がっていることを大切な信条とし、これが一つの社会組織を成していることが、家族制度の骨髄である。政府はこの二二条は我が国の家族制度を維持する上で、支障はないと考えているか」(井伊誠一議員=日本社会党)、あるいは「日本の家族制度、家督相続制度、家長制度、即ち祖先の位牌を継ぎ、現実に一家一門の中心として、祖先から子孫への継続を護り抜く日本特有の家族制度を法制的にも教育的にも保持存続させることが日本再建上必要である。この案では相続・家族制度に関して何等規定がない」(天野久議員=日本進歩党)等の意見が、与党及び野党の議員から強く述べられた。
特に、貴族院においては「政府原案第二二条は、合意による夫婦の規定はあるが親子に関することがなく、しかも家=家族協同体を除外したのはいかなる理由によるか。家族協同体は現に存し長い歴史を有している。しかし、放置すれば今日の産業社会下で、どういう運命を辿(たど)るにいたるやも知れぬ。もし夫婦に法律上の規定を必要とするというのであれば、家族協同体はそれ以上に憲法に明記が適当である。この家族協同体が資本主義のため、崩れつつあることは我が国だけの問題でなく、先進諸国でも社会学者、教育家、倫理学者のみならず法律学者も問題にしているところである。夫婦相和しの外に、父母に孝に、兄弟に友にの原則が憲法上何らかの形で表わされることが望ましい」(牧野英一議員=東京帝国大学名誉教授)とか、「家族には一般社会とは異なる特殊な共同制があることを認めない趣旨か。また、現行の家族・先家族と後来の家族の間の精神的連続性も認めない趣旨か。」「祖先の祀りは重要である。それを誰が祀る任務をもつかを定めることは、社会的と同時に何らかの法的構想を必要と認めるが、この憲法はそれを認めない趣旨か」(佐々木惣一議員=京都帝国大学教授)などの意見が法律専門の立場から強く主張された。そして、「家族生活はこれを尊重する」という規定を加える修正案が提出されたが、修正に必要な三分の二に達しないで否決された。そして指令部の案に基づいて、憲法第二四条として決定した。
この日本国憲法に基づいて、昭和二十一年七月臨時法制調査会第二小委員会の「民法、親族及び相続編の改正につき考慮すべき諸問題」が提案され、家族制度についていろいろと論議があった結果、改正要綱の第一では民法上の家を廃止するとあったものを、「民法の戸主および家族に関する規定を削除し、親族共同生活を規定に即して規律すること」と改めた。そして、総会においては山田三良委員(京城帝国大学総長)から、「家の観念が破れ廃止されれば、祖先を大切にする慣習も段々薄らぐ。日本国民の大多数が家を中心としているという農村生活・社会生活の根本が、民法の改正によって破れてしまう。また、日本の家に対して誤解があって、日本人は家名を尊んで命を捨てる。そういう国民道徳は根本的に打破せねばならぬ、だから日本人の好戦性を棄てさすには家を廃止せねばならぬという外部の誤解を解く努力をし、家廃止の法文化は慎重にすべきである」と発言があった。また牧野英一委員等から、家を存置することについての修正案が出された。
それらについて論議された結果、改正民法第四編親族について、
第七三〇条 直系血族及び同居の親族は、互に扶け合わなければならない。
という規定と、民法第五編相続について
第八九七条 系譜、祭具及び墳墓の所有権は前条の規定にかかわらず、慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者がこれを継承する。但し、被相続人の指定に従って祖先の祭祀を主宰すべき者があるときは、その者がこれを継承する。
前項本文の場合において慣習が明かでないときは、家庭裁判所がこれを定める。 |
このように、民法の親族編及び相続編の規定が、憲法第二四条の規定を承けて定められ、家についての骨格となるような規定や、相続財産についての家の維持や、祭祀の責任についての規定は総て削除された。
本来我が国の家族制度は、長い歴史の中で、自然に発達してきた家族共同体で、祖先崇拝は日本人本来の生命観に基づき、儒教や仏教の影響も受けて発達してきたものである。家は個人と社会を結合する社会生活、経済生活の単位でもあって、祖先より子孫に連なっている連続性をもち、人間性の育成と道徳の基本を教える場でもあって、我が国独特の性格をもっていた。
夫婦は平等の契約によって成立しているのではなく、愛情と協力による和合が根本であり、親子は慈愛と尊敬によって成立している。家族それぞれが共同体の一員としての地位と責任をもって成立しているので、家族が法によって平等を主張し、自由や財産の権利の主張が必要となったり、財産や地位が争いとなるのは異状の場合である。
しかし、民法は前に述べたように、直接の命令規範ではなく、裁判規範であって、法律の効果は、裁判所に訴えを提起してはじめて適用される。正常の家庭生活においては、民法の規定によらないで慣習と人情、道徳によって行われるのが正常であるが、いったん法律が定められると、それを逆用して、自己の権利を主張したり家の平和を破り、祖先の祭りを忘れ、あるいは親に対する扶養を怠ったりするようになる。
法律は河川の堤防のようなもので、河川の両岸や、河床が自然の地形によって堅固に維持され、また気候が順調で水量が正常に流れていれば、堤防はあってもなくてもよい。しかし、平野部の河川のように、河床や河道が不安定で、流れる水が豪雨や異常気象で変化し、上流の山林が荒廃していると、堤防がなかったり、堤防の設計や工事が、河川の流況と適合しない場合は河川が氾濫し、田畑や家屋が流失し、人命が失われる。特にそれが政治的権力によって、旧幕時代の木曽川のお囲堤(かこいづつみ)のように美濃側の堤防を三尺低くしたと言われるような場合は、弱い方は年々災害に苦しむことになる。
それと同じように、法律が民族の伝統や社会生活の実情と正しく対応していないと、人間の利己心や、外来思想の攻勢によって、道徳や社会常識が混乱し、社会の秩序や家庭の平和が破壊されるようになる。
このようにして、戦後の我が国は、敗戦の衝撃による異常の状況下で、社会の基礎であった家の制度が、憲法及びこれに基づいた民法の改正によって、ちょうど堤防を破壊された河川のように、社会生活に大きな変化や混乱をきたし、結局弱い者、善良な者が苦しめられるような結果を招来している。
そしてその一方では、戦後の占領政策によって農地解放が徹底的に行われた。これは我が国の明治以後の地主制度の弊害を除き、農村の近代化を進める上に大きな効果もあったが、制度や対策が十分準備されないでいるうちに、近代産業の急激な発展によって都市人口が急増をきたし、都市における土地価格の急上昇と核家族化が急速に進行し、その一方では農業人口の急減と農村の過疎化を招来した。
この分野からの家の制度の崩壊が、民法の改正と重なって、我が国の国民教育と社会道徳の基本を教える場であった家族制度が崩壊して、社会秩序の混乱に拍車をかけるようになった。
戦後の行政と司法
行政については、明治以来戦前の行政は、新しい西洋の文明を輸入して、富国強兵の政策を進め、我が国の独立を全うしながら西洋に追いつくためのものが多かった。行政の事務は、主として兵役に関する事務、治安を守るための警察や、国民教育や新しい産業の振興と、これに必要な鉄道や道路をつくる仕事、及びこれらの政策を行うために必要な租税の徴収や公用負担を課すことが主で、国民福祉までは十分に手が回らなかった。
地方自治といっても、市町村は実質は国家行政の末端機関としての性格が強く、戸籍、兵事、義務教育の事務と税の徴収が主で、日常における住民の相互扶助や消防、水利などは主として部落や町内あるいは組合等の負担で行われた。したがって、法律とか行政とかいうことは、政府即ちお上から命ぜられ支配されるもので、自分達の契約による共同の責任という意識が乏しいのであった。
行政は強大な国家権力を背景に行われ、労働問題や伝染病予防なども治安に関する問題と考えられて、警察行政の部門で担当していた。
戦後は占領行政の下で、アメリカの制度を輸入し、社会福祉、教育、保健衛生、労働等の国民生活に直結する行政や、農業、商工業等の産業についての統制や保護奨励等とともに、道路をはじめ各種建設事業や土地規制等、国民生活の各方面に行政が拡大し、行政の量・質共に大きく変わった。そして、これに伴う国民の税負担が増大し、財政は膨張した。
これらは占領軍の強大の権力を背景として法律を制定し、これを実施するという形で、行政事務として行われた。講和条約が成立し占領行政が終わっても、これらの行政に関する法律は存続するだけでなく、いっそう福祉の向上と経済発展を目指して拡大されてきた。そして、幸いに経済は発展し、高度成長によって国民生活も向上し、福祉行政も充実した。しかし、高度成長が終わり低成長時代となると、税負担の過重という問題が強く意識されるとともに、行政について住民の間に利害の対立が表面化し、その対立や矛盾を法律によって解決しようとするため、裁判所に訴える傾向が増大した。
国家や地方公共団体の行政で行う福祉や教育等の仕事には財政負担が伴い、それは国民の税によらなければならない。我が国は前に述べたように、民主主義の声は大きいが、実際の意識では法律は国が定めたもので、自分達が契約の責任者であるという意識に乏しい。福祉や教育を受けることは権利であり、補助金は取り得で、税金は取られ損という意識が強く、税は協同体の会費であるという観念が乏しく、税の負担と福祉の享受とがバラバラである。
また、都市計画や道路、治水等の事業においても、それぞれの地域や住民の間で利害の対立が多い。もっとはっきり言えば、行政が関与しなければならないものは常に国民の間には価値観に多様性があり、利害の対立がある。それを多数の住民のため、さらには将来の住民の幸福や国家社会の秩序の保持と発展の必要のために行うのが行政である。したがって、行政事務には常に利害の対立があり、それを法律に基づいて解決しながら、その目的を達成するのが行政の任務であると言わなければならない。そこに行政のむずかしさがある。それを一人でも反対があればやらないということは行政を放棄するものであろう。
この行政に関する法律は、まず第一条に「本法の目的は」と、「何々をしなければならない」と書いてあるように、法律を作ることによって、新しく直接国民に一定の義務を課すとともに、公務員に対して実施の権限を与えるものが多い。刑法の本文や民法の条文のように、社会の慣習や道徳として現実に働いている社会規範を維持するための裁判規範ではなくて、直接利益を与えたり取締るための規定が多い。したがって、そこには常に前に述べたように、受益者と税の負担者との利害の対立という社会構造的矛盾を包蔵しているので、法律の知識やその解釈だけでは解決できない問題が多い。
特に、戦後の経済問題や社会問題、労働問題、公害等の問題は、複雑な利害の対立や専門的知識を要する問題が多く、行政の当事者でもむずかしい場合が多い。これを法律については専門家でも、社会生活や経済・財政については専門家でもなく、事業についての実際の経験のない裁判官が、法廷で裁判によって解決することはむずかしい場合が多いのは当然と言わなければならない。
戦後は行政裁判所制度が廃止され、総ての裁判が司法裁判所で行われるようになった。そして、地域的な対立や階級的対立の問題まで司法裁判所に持ち込まれるので、その解決を困難にしている。本来行政事務は、常にその執行については、時間的制約と財政的制約の下において処理されなければならない。司法は常に法の維持を目的として行われなければならないので、その間には相互に矛盾するむずかしい問題をもっていることを覚悟しなければならない。
これまで述べてきたように、我が国は戦後焦土の中から立上り、外国の科学技術を採り入れて産業を発達させ、産業経済の面においては驚くべき発展をみた。それとともに、憲法をはじめ新しい法制度をつくり、政治、行政や司法についても大きな改革が行われ、旧来の積弊を一掃するとともに、福祉の増進や教育文化の発展にも大きな成果をあげた。しかし、法律は人の意識に訴え、人間の自覚的行為を要求するものである。したがって、国民の意識は風土や歴史によって形成された国民性を基礎に成立しているのであるから、外国の制度を輸入して形式や言葉だけをまねても、十分にその効果を挙げることができない。かえって、従来の社会規範や国民の意識と衝突や対立が起こったり、誤解や誤用に陥ることの多いことは、個人の場合でも国家の場合でも免れないことである。
西洋諸国は大陸に国を建て、多くの人種や民族が境を接して対立抗争の歴史を繰り返し、国家の内部にも多くの人種や異なる民族を包含しているので、これを統一し、秩序を維持するためには、厳格な法の支配と契約の厳守が絶対的でなければならない。そしてその基本には、ギリシアの理性の哲学とローマ法を継承したのが近世の西洋の法律思想である。さらに、ローマ法の基礎にはローマ帝国の統一の言葉としてのラテン語がある。
ラテン語は厳格な文法や論理性を特色とする言葉である。内は帝国を支配し、外は異なる民族ともコミュニケーションに役立てたもので、ローマ帝国は崩壊したが、ラテン語は現代もロマン系の言葉の中に生き続け、西洋諸国の知識階級の教養の基本として、また学問における共通の言語として使用されている。そして、論理的に明確な内容を理解するコミュニケーションの手段とされている。
したがって、西洋諸国はラテン語が標準語で、各国の言葉は方言のようで、お互いの国民の間に共通の意識とコミュニケーションが可能である。日本語は同一民族の内で育った言葉で、言わば家の中の言葉である。論理や概念が不明確で、慣習や情合いで通じ合い、非論理的でかつ情緒的象徴的である。人情や自然の微妙さや複雑な感情を内容にもっていて、俳句や和歌のような象徴的な文学にはすぐれているが、国際的コミュニケーションのための、正確な論理や概念を表現するには極めて不正確、不便な言葉であり、人と人との信頼の上に成立している言葉であるといえよう。そのため、西洋の法律を理解し、これを正確に表現することがむずかしいとともに、それを翻訳してつくった法律を一般日本人に理解させ、遵守させることが困難であるのは当然である。
したがって、政治、行政、司法に当たる者はこの事実を十分に認識するとともにそれに当たる人、すなわち公務員の人格とそれを基礎とする信頼が重要である。
gyoseito | TOP |
法 律 と 公 務 員
碧海純一教授はその著『新版法哲学概論』において、「<法治国>とか <法の支配>とかいう表現には、人間でなくて法が統制の主体でなければならないという要請が含まれている。しかし <法が支配する>というのは厳密に言えばあくまで一種の省略語法に過ぎず、現実に支配し、統制するものは、支配され、統制されるものと同じく、やはり生身の人間でしかあり得ない。このごく自然の事実を忘れるなら <法の支配>はひとつの神話と化してしまう」と述べている。
法の支配ということは、行政を行う者が個人的恣意や、無法の権力によって支配する専制的行政を禁じて、法の定める手続と、法に定めた規範に従って、行政や裁判を行うということで、近世の民主主義思想の具体的な原則をいうのである。法律学者や行政の担当者は、ややもすると法律というものが六法全書の中に存在し、その法律が直接人間を支配し、法の権威が直接行政を行っているような一種の錯覚に陥っている場合が多い。法律はこれを執行する権限と責任をもっている者、すなわち、公務員の行為によって、法としての働きをしているものである。それだけに生身の人間である公務員が正しく法の精神を具現しなければならないので、その責任は重大である。法が正しく生かされるかどうかは公務員の人の問題である。この当然のことが忘れられると、どんなに法律制度が整備されても、法律は正しくその機能を発揮することができない。
特に、戦後我が国はこれまで述べてきたように占領行政の下で、新しい法律が多く制定され、社会福祉、教育、文化、産業をはじめ、都市計画や住宅等、住民生活に関する行政が増大した。そして、それらの法律は住民の日常生活に直接関係するものが多いが、次から次に制定される法律は住民にとって、理解し、実行することが容易でないものも多くあって、我が国の実状に必ずしもうまく適合しないものもあった。そうした法と実際の社会との矛盾や間隙を十分に認識し、社会経済の実際の知識と人情の機微を理解して、その間隙を是正し、矛盾を解決するものが行政に当たるものの実際の仕事であるといわなければならない。
行政を担当するものは法律の知識がなければ行政はできないが、法律の知識さえあれば行政ができると思ってはならないということが、生身の人間である公務員の心得としてまず必要である。
法や制度はいかに整備されても、公務員にその人を得なければ法律は正しくその機能を発揮できない。
行政事務の増加
前に述べたように戦後は福祉国家の建設ということが行政の最大の目標となり、「ゆりかごから墓場まで」といわれるように、国民生活のあらゆる部面が行政によって保護、助成されるようになった。特に、福祉は住民の身辺において行われることが必要であるので、それを担当する府県や市町村の職員が増加した。日本において国家公務員から地方公務員までを加えると、公務員の総数は約四〇〇万人に達した。この中には、公共企業体職員や、警察職員、教育職員等も含まれているが、狭い意味の行政職員だけでも約一一〇万人に達している。この公務員の給与等の人件費だけでも大きな額に達する。
福祉の充実ということは望ましいことで、国や地方公共団体の行政によって、国民の健康を保持し、恵まれない者や不幸な人々を救済し、老人に生活の不安がないように年金を増額することは最も望ましいことである。しかし、そのためには多くの費用が必要であり、それを国民は税金によって負担しなければならない。国や地方公共団体は、住民のため支出する金と国民の負担する税金の財政収支のバランスの上に成立しているのである。
西欧先進国では、一九六五年頃には政府支出が、対国民総生産(GNP)で英国三四・六%、西独三五・一%、米国三二・九%と大きな比率を示しており、一九七五年にはさらに英国四六・〇%、西ドイツ四五・六%、米国三五・九%へと上昇した。我が国においては、一九六五年に一九・四%、一九七五年二六・七%と増加したが、経済の繁栄によって一九七〇年代の終わりには三〇%を超えるようになった。
その行政支出の増加は、国民の税負担の増大、さらには、国民の経済生産力によって支えられなければならない。国民の税負担力の限度を超すと、国の経済力が減衰し、国民の働く意欲が減退し、イギリス病といわれるようになる。近年は西ドイツや、アメリカにおいてもそうした傾向が現われてきたといわれ、専門家によって研究報告が出されている。
我が国は戦後世界が驚くような経済成長を続け、国民福祉の充実が進み、しかも、国際収支も健全で、物価も欧米諸国に比べて安定している。しかし、政府支出増大によって国民の税負担が増大し、財政収支はしだいに均衡を失い、赤字財政の傾向に進んでいる。
我が国においても、高度成長から安定成長、さらには景気の沈滞が続くようになると、国民の税負担の軽減が必要となって、行政整理の必要が唱えられるようになった。
行政費と公務員の問題
公務員の組織や定員は、国の法令や、地方公共団体の条例や規則によって定められている。そして、それに必要な俸給給与等の人件費は、その定員に応じて年々予算に計上される。
民間の企業は、まず事業の収入から支出を差し引いた利益があってはじめて、人件費が支出される。しかし、国や地方公共団体においては、一般に既定の定員の人件費は既定経費として予算に計上され、ベース・アップの額や新しい事業のための人員の増加、事業廃止のための人件費の削減だけが予算折衝として行われるのが通例である。そのために、一度組織が定まり人員が決定されると、廃止や削減はきわめてむずかしい。そして、組織ができるとその組織を維持し、さらに、それを拡大するために仕事をつくり、仕事をつくると人員が増加するという悪循環によって、人員が増加する傾向が強い。
国家公務員は各省別に、さらに、その下の局・部・課や出先機関毎にそれぞれ人員が配置されており、地方公務員もそれぞれの公共団体の人員が、各部課に分かれて配分されている。そして、組織の一員として事務を分担し、その定められた権限によって事務を執行している。日本の公務員はその属する組織に対しては忠実で、組織の一員として生き甲斐を感じている。その一面では縄張り意識が強く、人員が増加したり、予算を多く分捕って組織を大きくすることが、有能な公務員であるという意識が強い。そのために、組織を廃止したり、整理縮減することは、個人の出世や利害だけのためでなく、組織の一員として、その忠誠心と一体感から、強硬に反対する。
歴代の内閣で、行政整理、行政の合理化を政策に掲げないことはないが、日本人独特の総論賛成、各論反対という論理のために、成功した例は少ない。
民間企業であれば、人件費の増大は直接利益の減少となり、さらには倒産に結びついているので、人員の増加を極力抑えるとともに、企業を守るためには、企業の責任者である経営者も、責任ある労働組合も努力して、人員整理も断行する。
経営の神様といわれた豊田自動車工業の石田退三社長は、「企業経営のコツは人を増やさないで、設備改善によって能率を上げることだ。機械は文句も言わぬし、退職金もいらぬ」と石田語録を残した。しかも、行政は企業のように、その成績や効果を利潤の多少によって直接精確に計算することができない。国や公共団体は倒産しないという安心感から、いわゆる親方日の丸意識によって、公務員の人員は増加し、行政の整理はむずかしくなる。
行政において、まず重要なことは、事務能率の改善である。戦後アメリカ式の事務能率の改善方式をとり入れて、事務処理の能率化や機械化、勤務時間の厳正などが研究・励行されているが、まだ十分とはいえない。公務員について、まず最も大切なことは、適材適所の配置によって事務の能率化を行い、少数の職員で事務を処理するように努力することである。
前に述べたように、占領行政下において新しい法律制度が施行され、行政の量が増大した。それに伴って行政の職員も増加し、財政の改善も行われるとともに、シャウプ勧告によって地方公共団体の財政の強化が行われた。しかし、それに伴う国と地方公共団体の事務の再配分は勧告だけで、講和条約の締結によって棚上げされた形になり、中央の官僚の縄張り意識によって地方出先機関の拡大が行われた。
講和成立後三〇年を経て、我が国も安定成長期に入り、国家財政も膨張の結果、財政の赤字が増大してきた。そして近年、行政機構の改革や公務員の削減の問題が臨時行政調査会を中心に重要な課題となってきている。
民主主義の行政においては、行政は国民のための行政であって、国の行政も地方公共団体の行政も、等しく国民のために国民の負担によって行うのであるから、行政は住民の責任において、できるだけ住民の身近において行うことが必要である。中央政府は国防や外交など全国統一に行うことの必要な事務以外はなるべく地方公共団体に任せることが必要である。近年市町村の規模も大きくなり、事務能力も向上しているので、思い切って、事務は市町村を主として地方公共団体において処理するようにし、国の出先機関は原則として廃止することが必要である。それによって、行政組織の簡素化と行政の実質的効果を挙げ、行政費の節減ができるであろう。
公務員の任用と訓練
行政において最も基本となることは、優秀な人材を公務員に任用し、適材適所に配置し、その能力を発揮させることである。近代国家の公務員は、中世の封建制度下の家臣や専制国家の官僚のように、主君や帝王に対し身分的に隷属するものではない。もちろん、上司と主従的な服従関係にあるのではない。国民が自らの意志によって職業として選択したものであり、国家や地方公共団体は一定の資格と能力に基づいて公平に任用するものである。したがって、公務員の資格と任用は最も重要な問題で、公務員制度の基本をなすものである。
明治維新後、新しい政府はその行政の組織をつくるに当たっては、薩摩・長州をはじめ、主として維新に功労のあった藩の出身者を官吏に任用したが、同時に新時代の政治、行政に必要な人材を得るために、旧幕府をはじめ各藩からも西洋の新知識を有する者を任用した。その後、憲法の制定を前にして明治十八年内閣制度が成立し、近代法制が整備された。それに伴い、東京帝国大学法科大学が官吏養成のために創設されるとともに、官吏任用試験制度が確立し、高等文官試験に合格したものでなければ、原則として高等官に任用できない制度をつくった。初めは東京帝国大学法科大学をはじめ、帝国大学法科卒業生は高等試験合格者に準じて任用資格があったが、後には帝国大学卒業生も高等官に任用されるには、原則として高等文官試験の合格を必要とするようになった。
これは当時、西洋の法律を輸入し実施するために必要な措置であったが、一方藩閥官僚制を打破して、広く全国から人材を集め、新しい法治国家を建設するための画期的な改革であった。
戦後は公務員制度にもアメリカの制度が多く採り入れられ、憲法第一五条に「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民の固有の権利である」、「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と規定された。そして、高等試験制度は廃止され、国家公務員については人事院において、上級職・中級職に分けて、それぞれ専門科目によって試験をし、合格したものを各省において選考の上で任用することになった。地方公共団体においても、これに準じて人事委員会で試験の上任用している。
そして、国家公務員については、本省採用の上級職合格者を戦前の高等試験合格者に準じて幹部要員としている。また、本省採用の幹部要員を、その出先機関及び府県等の地方公共団体にも配属し、人事の交流を行っている。これは、広く優秀な人材を任用し、幹部として特別の訓練とプライドを持たせるという点で長所もあるが、現在、大学の卒業生が公務員の多数を占めている時代において、戦前と同じように、一回の試験の成績によって一生の格付けをするということは問題である。
戦後は、アメリカの公務員制度に倣って、一般行政職は職階制度を採用し、職階に応じて給与を定めるように給与表が定められている。その一方では、医師、大学教授、研究職、判検事等の高度の専門的知識を要する者は、専門職として高い給与を支払うように、特別の俸給表を定めるとともに、任期制度を定めて、その任期ごとに厳格な成績査定を行って、再任用をするか否かを決定することになっている。
また、一般行政職についても、職階制度を実施するためには、採用時の試験だけではなく、採用後の勤務評定を厳格に行うとともに、昇任試験を行うことが前提になっている。
このように、アメリカの制度に倣って、職階制や俸給表ができているが、我が国においては終身雇用、年功序列、肩書尊重の旧来の意識が強い。そのために、行政職の上級職公務員には、高等文官試験時代と同じような特権制度が行われ、採用年次による序列がついて回るとともに、一般行政職員も勤務評定や昇進試験には反対を唱える場合が多く、役職の肩書をつけたり、給与にわたりを行って年功序列制度が実際上は行われている場合が多い。
特に、高度の学識と専門的能力を要し、進歩的指導者といわれている司法官や大学教授等も任期制はほとんど有名無実のようになり、アメリカのように厳格な勤務評定や成績評価は行われないで、年功序列型定年制になっている場合が多い。これは組織への忠誠や生き甲斐の意識となって、職場の協力体制や能率の向上に役立つ場合もあるが、親方日の丸意識と結んで、無責任体制となったり、派閥や学閥をつくる欠点も生ずるおそれがある。我が国の公務員は一般に勤勉であり、かつ清廉である。特に、上級職公務員は一種の使命感をもって職務に精励し、事務処理能力にはすぐれている。しかし、前例規則を尊重する一方では抽象的規則にとらわれて実生活の経験や人情の機微に対する庶民感覚には乏しく、また、大局に立って自らの責任において決断する勇気に欠ける欠点がある。また、個人としては謹直で公正でも、組織を守るために不正を行ったり、あるいは、派閥や徒党を作ったり、親分子分関係によって情実に流されたりする傾向がある。
現代の社会は進歩が急速で、国際関係も密接となり、その交流も盛んとなった。公務員は法律の知識だけではなく、社会経済や、国際間題についても広い知識を要するとともに、組織を運用するための高い見識と合理的精神が要求される。特に、上級公務員には国際知識や高い見識と、大局を見る眼が必要である。
このために、採用時の成績や年功序列だけでなく、不断の研究と生涯を通じての学習が必要であり、公務員の研修制度や再教育が重要である。例えば、フランスの国立行政学院(ENA)の制度や、戦前の陸・海軍の陸軍大学校や、海軍大学校のように、一定の期間公務員として勤務し、経験を積んだ者の中から勤務成績、人物評定、学科試験を総合して選抜し、数年間再教育を行って、高級幹部に任用することも一つの方法であろう。また、外国の大学や国内の大学院などへの委託学生や、大学の教授や研究員との交流も考えられる。我が国の実情と国民性に合った公務員教育を実行することが必要であろう。
公務員制度で最も重要なことは、広く各方面から能力に応じて人材を集めるとともに、任用後においては常に生き甲斐を感じて努力できるように公平な昇進の機会を与え、能力によって適材適所に配置をすることである。特に、幹部職員の人格・識見が最も大切である。
国会と行政機関
近代国家は三権分立の原則によって、国会は法律及び予算を議決し、行政機関は国会で議決制定された法律と予算に基づいて行政を執行する。司法は裁判所がこれを管轄し、独裁・専制が行われないように権力の分立を行っている。
日本国憲法第四一条は「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」と規定し、また、第六五条で「行政権は、内閣に属する」と規定されている。
日本国憲法をはじめ、戦後の法律制度は多くアメリカの制度を採り入れたが、内閣制度はアメリカの大統領制を採り入れないで、イギリス方式の議院内閣制度を採用した。このために内閣総理大臣は国会で選出され、国務大臣も多くは国会議員から任命されると同時に、各省の大臣として行政の責任者となる。そのため、国会と行政機関は密接一体の関係にある。
国家が国民の経済活動や社会生活に関する機能が多くなると、行政の分野が拡大し、立法機関と行政機関の関係が密接となり、行政国家といわれるようになる。社会主義国家では党の執行委員会が立法・行政両方の実権を握り、書記長又は党主席が事実上の元首となっている。
自由主義国家においても、党の総裁が内閣を組織し、立法と行政が密接な関係となって、行政官が政治や立法の専門部門を担当するようになる。しかし、それは専制王制の官房政治(ビューロクラシー)ではなく、行政の専門家(テクノクラート)としてであるが、政策の立案に関係が深くなる。
一方、国会も制定する法律が多くなり、国民生活や経済に関する予算が増大するとともに専門化するようになって、委員会を中心に運営され、議会閉会中も活動するようになった。その結果、各省の行政と国会の委員会の関係が密接になり、さらに各省の高級官僚が国会議員選挙に立候補し、議員となる者が多くなり、農林族だとか、運輸族だとかいわれるようになって、委員会の委員が各省の政治面を代表するような形になった。
これは一面では、行政の運営を円滑にし、その機能を充実する長所もあるが、一方では立法機関と行政機関の権力の分立と相互牽制の機能を弱め、国会の行政監督の機能を低下させることになる。また、行政が選挙に関連して政治利権のために利用され、構造汚職の問題を生じ、政治の腐敗をもたらし、国家の崩壊を来たす危険性が生じた。
このように、戦後の行政はアメリカの民主主義の行政制度や機能が採り入れられて、明治以来の国権主義的な行政が改革され、国民の福祉を中心とする行政となった。公務員の住民に対する態度や心構えも改善されたが、その一方では、行政のための国民の負担が増大するとともに、行政官が公正に毅然として国家社会の大局に立って職務を行うという精神が失われる傾向も生じた。
公務員と行政の道
冒頭に述べたように、法律による行政といっても、行政を執行する公務員も行政の対象となる国民も生きた人間で、人と人との関係において行われるのである。人間生活を規制しているものは法律だけでなく、道徳・習慣・礼儀・義理・人情等のいろいろの社会規範があるとともに、人間は一面では法律や社会規範を正しく遵守しようという公正な精神をもつとともに、一面では我執や私欲をもっている。そして、国家の中においていろいろの団体や党派をつくって、複雑な利害関係をもって生活をしている。
そうした中で、法治主義近代国家として、公正で真の国民のための行政が行われるためには、公務員の仕務は重大であるといわなければならない。
我が国においては、長く儒教が政治道徳の基本として国民性を形成してきた。法律による行政といっても、それは身をもって法を体現している公務員に対する信頼があってのことであることを忘れてはならない。すなわち公務員の人格と、それに対する信頼の上に法律が生かされているのである。一言でいえば <行政は人なり>ということができよう。
儒教は政治を行う者の徳、すなわち人物を基本とし、『論語』には政治の根本は徳にあることを説いている。そして、政治行政の局に当たるものはまず身を修め、家を斉(ととの)え、然る後に天下を治めることを教えている。江戸時代には政治教育の基礎を儒学に置き、儒教の王道思想と我が国の共同体意識とを結合し、幕府や各藩においても名君、賢臣といわれる人達は儒学を修め身をもって政治に当たった。
明治以後は西洋の学問を学ぶことに急で、官吏の登用は法律の知識を第一としたが、それでも和魂洋才という言葉があるように、人間形成のための教育・修養を重んじ、公正と廉潔を尊重した。ところが、戦後は儒教や仏教などは時代おくれで、道徳教育は反対であるといって、金と法律の知識だけで、政治や行政ができるように思うものが多くなった。政治行政において人の問題が忘れられている。その結果、儒教的人格主義の指導精神を失い、政治道徳が頽廃し、金権政治や派閥政治が盛んとなった。近年明治の政治が見直されて、公務員が清廉・公正であったことが国家の発展の基本だと説かれるようになった。
公務員の心構えを説き、法律と公務員倫理について最も勝れて、教えられることの多かったものは三宅正太郎著『裁判の書』である。三宅正太郎先生は戦前から戦後にかけての名裁判官である。そして、名文家としても知られている。大審院判事として、裁判の実際に当たられた。また、司法次官として司法行政にも当たられた。『裁判の書』は戦時中一部の法曹界の人達の軍国主義的風潮によって、司法の公正が失われるおそれのあることを憂え、過去の歴史的実例や自らの裁判の経験によって、裁判官の人格の重要性と、裁判官の心構えを説いたもので、現在においても生命を失わない名著である。
その内容の一端を述べると、「明治以後法律学の性格は、よしそれが治国平天下の道であると呼称したるにせよ、それは医学や工学と同じく知識の供与である。」「日本における外来法の尊重と、これに附着して来た概念法学等の理論がややもすると日本の裁判を抽象論の奴(やっこ)たらしめた嫌いがあった。これは法を弄(もてあそ)ぶ弊である」と明治以来の外来法学の受入れの態度を強く批判している。「裁判に当る者がその意識において私があってはならぬ。裁判はいささかも私的な感情の潜入する隙を許さぬ覚悟がなければならぬ。」また、「裁判官が自ら高しとする気を起せば、その瞬間から裁判の公正は狂う」「裁判の中心は裁判官その人である」と述べ、自らの経験や、板倉勝重父子をはじめ、古来の名裁判官の言行を例にして、具体的に裁判官の心構えを説いている。
「言葉というものくらいむづかしいものはない。単なる一つの言葉にしても、これを読む人の心によって、その人の教養程度によって千差万別の解釈がされる」と、文字・言葉のむずかしさを述べ、条文の文字や判例の言葉によって安易に法令を扱うことを戒めている。
「裁判の価値は裁判の結果ではなく、味(あじわい)である。その味とは裁判を受けた者をして、裁判に心から悦服せしむることであり、裁判の中の正義と仁愛を心から信ぜしむることである」と、真の裁判の意味と法律の精神について実例をもって説明している。
これは『裁判の書』であるが、裁判の文字を行政と読み換えて、法律と行政、行政と公務員の関係としても同じであろう。
行政官としての長年の経験の上から、行政と人との関係について説かれたものとしては、林敬三氏の『行政の道』がある。林敬三氏は長年内務省の官吏として行政に当たられ、戦後はさらに宮内庁や防衛庁の要職等にあって、現在(昭和五十六年)は日本赤十字社社長の重責にある。旧内務省の先輩として令名の高い人格者で、私もご指導を受け尊敬している方である。『行政の道』は自治大学校で研修生に講義されたものを印刷にして、その後もテキストとして用いられている。小冊子ではあるが、「行政は人なり」ということを古今の実例や人物について述べている。
「政は正なり、政は誠なり、という孔子の言葉があるが、行政において最も大切なことはそれにたづさわる公務員の人格であり、その誠である。これは三宅正太郎氏の言葉を借りていえば、行政の精神は正義の実現である」と、行政も裁判と同じく人にあることを述べている。
「法律制度、思想、学問、機械、芸術いづれもこれを外国からわが国に移すことができる。しかし、これを運用する人を移すことはできない」と、公務員の責任と自覚を説いている。
そして、最後に「地方自治は自律にはじまり、自律に終わる。住民各位は自分のことは自分で決め、自分の理性に従って、同時にそれが客観的に見ても正しいという道を歩く。また、地方団体全体としては、地方団体自身がそれぞれの特質はあっても、おおむね世間の良識から見て正しく進展することが必要である。この自覚を欠くときにはいかに地方自治を法律の形で完備してもそれは魂を欠くもので、とうてい真の地方自治の成果を期すことは困難というべきであろう」と結んでいる。
また、最近(昭和五十三年)横溝光暉氏は『行政道の研究』という著書を出版された。「行政は人なり」という言葉を「行政道」という言葉で説き、「行政道とは行政人が職業において、また日常生活において守るべき道である。行政人の掟であり、行政人の身分に伴う義務である」と、行政人の心構えと倫理を説かれている。
同氏は、長年内務省関係の公務員として行政の体験を基にして行政道について研鑚され、自ら「人生の卒業論文」として書いたと述べている。聖徳太子の十七条憲法・大宝律令から、貞永式目等武家法制についても研究され、さらに、明治時代以後の官吏服務紀律・訓令及び綱紀粛正についての内閣訓示等を詳細に研究され、公務員の責任と倫理の重要性を説き、綱紀の粛正について歴代の政府がいかに苦労しているかを述べている。そして、それは一面からいえば、権力をもつものがいかに腐敗の危険が多いかということと、いかに公務員の行政責任が重大で、むずかしいものであるかを述べ、行政道の実践に努めなければならないことを教えているものである。
そして、「行政道の実践とは公務員の職務を通しての人間形成の問題であり、国民道徳、社会正義実現の根本をなす問題である」と結んでいる。
真に行政がその機能を発揮するためには、法が人と一体になって人間形成が行われ、それが実践されなければならない。
P265
TOP | HOME |