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一 富永半次郎先生と仏教思想
(一)富永先生との邂逅(めぐりあい)
二 芸 道 と 人 生
(一)阿波研造とオイゲン・ヘリゲル |
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P268
私はこれまでの自分の人生遍歴を回顧してみると、独学といっても、その間において多くの方々の教えを受け、御指導を受けた。特に、戦後自分の人生観と思想の根本をご指導いただいたのは富永半次郎先生であった。そこで、この人生遍歴のしめくくりとして、富永半次郎先生との出会いとその思想について述べなければならない。
私は富永先生の弟子というような立場ではなく、時々お伺いしてお目にかかって教えていただいたり、先生の書かれたものや講義内容を門下の方々がまとめて印刷されたものを、自分の力の及ぶ範囲で勉強させていただいた程度である。したがって、これが先生の教えであるとか、先生の哲学について述べるというのではなく、また、先生の伝記とか学問を述べようというのではない。自分の思想を形成するために先生に教えていただき、自分で理解し、受け取ったものを、できるだけはっきりと再認識したいと思って書くのである。
富永先生は世間でいう学者でも、宗教家でも教育者でもない。また、世間的な地位や名誉をもつ有名な方でもない。市井にあって、学問と人生についてその蘊奥を究め、道を楽しみ、悠然と自適され、道を求め教えを求めるものには誨(おし)えて倦(う)まず道を説かれた方である。
そのために、まず初めに先生の七回忌に当たって、門下の方々が作った年譜と、その際に先生の終生の親友で、文部省の局長や国民精神文化研究所長などをやられた関屋竜吉先生が話された記録などによって、その人となりを簡単に記すことにしたい。
先生は明治十六年二月二日、日本橋区(現在中央区)馬喰町で羽前屋という宿屋を営んでいた父半兵衛・母いとえの長男として生まれた。この宿屋は先生の祖父か曽祖父に当たる庄内藩士であった方が、幕末に脱藩して開業されたものであるといわれる。
先生は関屋先生と同級で、府立一中から第一高等学校、東京帝国大学法科大学と当時の秀才コースを進まれた。関屋先生の話によれば、非常な秀才であったが、中学四年の頃からは学校の成績などは問題にしないで、土岐善麿などと万葉集の研究などをやっていた。一中を卒業後、「学校などはどうでもよいが、君が行くなら自分も行くか」と当時の一橋高商と一高の入学試験を受け、両方ともよい成績で合格し、関屋先生とともに一高を経て、東大の法科に入った。当時の同級には関屋先生や三宅正太郎先生などがいた。
帝大の法科に入り、しばらくすると「こんな講義のノートなど取っても仕方ないではないか」といって、一年で文科に変わった。しかし、漢文の講義以外はほとんど出席もせず、試験も受けないで大学を終え、自分で日本、中国、西洋にわたり、古今東西の思想について探求された。
そしてかたわら、関屋先生のすすめで、文部省の嘱託や財団法人社会教育会の主幹や、関屋先生の主宰する日本青年協会の理事兼学監に就任され、全国から選抜された青年研修生の教育にも当たられた。
昭和七年から日本青年協会が都下の大学、専門学校の優秀な学生有志を集めて、徹底した世界観・人生観の教育を行うための会を、先生は碧巌録の百丈野鴨子の公案に因(ちな)んで、野鴨会と名づけられ、これら学生の教育に当たられた。
昭和十二年にこの会が改組された。日本青年協会から離れて東京帝大、一高生らの有志によって、「富永先生の会」が設立された。先生の講義は毎週二回夜学として、本郷追分の願行寺で開かれた。そして、その講義筆録を中心に雑誌『一』が刊行された。『一』は、聖徳太子の法華経義疏の「夫レ妙 法 蓮 華 経ハ蓋シ総 取シ萬 善ヲ合シテ為ス一 因ト之 豊 田」(取と萬の間に二点、善と合の間に一点、為と一の間に二点、因と之の間に一点)の文から名付けられたものである。
私が初めて、先生にお目にかかったのは、この「富永先生の会」が発足して間もない頃であった。
私は前に述べたように、昭和十一年十月から国民精神文化研究所に、中等学校教員の六か月研修生として入所中であった。先生にお目にかかる前の一月頃、研究所長の関屋先生のお誘いで、二〜三人の研修生と日本青年協会を訪れ、そこで開かれた府立一中の生徒の会に出席した。その席で関屋先生が一中の生徒に対して、「諸君の先輩の一中の卒業生の中にはいろいろの人がいる。私や三宅正太郎君などは余り頭が良い方でないので、文部省の局長とか、三宅君は大審院判事などをやっている。私達の友人の富永半次郎君はずば抜けた秀才で、余り頭が良いので大学では満足できず、自分で道を求めて野に在って勉強している。しかし、将来の世界の思想を指導するものは富永哲学であろう」と話された。傍らで聞いていて、世の中には偉い人がいるものだと強く印象づけられた。
その頃、国民精神文化研究所で研修生係の助手をしていた小山門作氏と親しくなった。ある時、小山氏から「俺の本当の先生に会って見ないか」と言われ、小山氏に連れられて富永先生の柳橋のお宅に参上した。昭和十二年二月六日のことである。
先生はその頃は柳橋の二階建ての町屋風の家に住んでおられた。階下の部屋で会って下さった。
「どうだ、少しは見当がついたか」と言われた。そのお言葉の見当がつかぬので「はあ?」と言ったら、先生は微笑されながら、「方向さえ見当がつけばよい。ものになるのは容易でない」と言われた。そして、研究所の感想などを聞かれ、いろいろとお話をして下さった。
その後小山さんの紹介で、願行寺の先生の講義にも二回ほど出席した。また、先生の海軍大学校での講義を印刷した『国体の信念』や、願行寺の講義を印刷した『一』等を小山さんから頂いた。しかし、先生の教えはその頃の自分には余りにも高遠であった。
国民精神文化研究所の六か月の研修を終えてからも、上京の折に一、二度柳橋のお宅にお伺いしてお話を承った。
昭和十五年五月内務省に就職し、お宅に挨拶に参上した時、内務省には小倉謙がいるから会ってみるようにと言われた。当時小倉さんは警保局保安課の事務官であった。以来小倉さんとはずっと親交を重ね、御世話になった。
幸いに内務省に勤務するようになったので、今度は腰を据えて、先生の講義にも出席できると思い、願行寺の会にも出席した。
当時の日記によると、八月四日柳橋のお宅に参上した。この時先生は
うちわたす 夢の浮橋 葛木(かつらぎ)の 神ならぬ身の つま木なりけり
という歌を紙片に書いて示された。そして、「葛木の神というのは役(えん)の行者のことで、役の行者が法力で橋をかけたという故事にかけて詠んだのである。我々の世界というものは神がつくったものではなく、自分の経験を資料として自分でつくったもので、自分の心と同じものである。最近発見されたパーリ語の涅槃経の中に、釈尊の最後の言葉として、ヴァヤダンマー・サンカーラー(Vayadhammã samkhãrã)(samkhãrãのmの下に点)というのがある。この言葉を歌にしてみたのである。この言葉は釈尊の仏教の真髄であると思う」と話された。
それから、書経の商書、咸有一徳編の「徳惟(こ)れ一なれば、動いて吉ならざるなし、徳二三なれば動いて凶ならざるなし」という言葉を説明されて、この「徳一とヴァヤダンマー・サンカーラーとは相通ずるものだ」と話された。そして、「漢民族の思想は殷(いん)の時代に既にここまで到達しており、これが周の文王や周公の政治となり、孔子が斯(こ)の道を実現しようとしたものが儒教である」と教えられた。
これは先生の教えの基本で、この「ヴァヤダンマー・サンカーラー」は釈尊の正覚を伝えた言葉であって、この言葉によって先生は実習と体験を積まれたのである。
私などの想像をさえ絶する高遠な境地であるが、この言葉だけは忘れずに心に刻み、以来今日に至るまで、心の中で復唱している。
先生は仏教について深く研究され、座禅も随分やられたそうだ。それで、寒巌枯木の禅僧のようにも思われるかもしれないが、若い頃は河東節を稽古されて、歌舞伎座で河東節連中と一緒に助六に出演されたという話もある位で、洗練された江戸っ子の粋人という面も持っていられた。いわゆる道学者とは無縁であり、古今和歌集や源氏物語をこよなく愛好され、また其角に親しみ、市井にあって悠々と道を楽しみ、誨(おし)えて倦まない人であると、愛(まな)弟子の千谷七郎氏は述べている。
前にも書いているように、私はこの後間もなく、病気で倒れてずっとお目にかかることができなくなった。病中で、時には先生からお別れの形見に、前に述べた言葉を与えられたように思われ、このまま生を終わるのではないかと思うこともあった。
私が茨城県の村松晴嵐荘で療養中、昭和二十年三月の空襲で、東京の下町一帯は焼野原となった。先生の安否が気づかわれたが、当時は連絡もできなかった。戦後晴嵐荘を退荘して内務省に小倉さんを訪れ、先生は空襲の前に群馬県の小舟というところに疎開されて、ご無事であることを承った。その後、愛知県に勤務するようになって、地方課長の頃、日比谷公園裏でひょっこり小山さんに会い、先生は最近小舟から浦和市大谷場に移られ、千谷七郎氏達がお世話しているということを承った。そして、次に上京した折に浦和のお宅にお伺いした。
先生のお住居は浦和駅から歩いて一五分位の、本通りから少し入った静かな屋敷町にあって、生垣に囲まれた家であった。木戸を入ると狭い前庭があって、玄関を入ると左手に千谷さんの家族の住む部屋がある。右手に先生のお住居になった八畳の部屋に四畳位の納戸が続き、部屋の右手は壁で、南側の障子の外の濡れ縁の先は狭い庭になっていた。狭いお宅であったが、終戦直後としては落着いた閑静なお宅であった。先生はそれからもずっとこのお宅に住まわれた。
富永先生と婦人 (絵・たけうちとしお氏) |
私は年に一、二回上京の折に参上し、ご機嫌伺いかたがたお教えを承った。
先生はいつも八畳の間に床を敷いて、その上に小さな机を置き、書物を調べたり、ものを書いたりしておられた。奥様はその傍らで影が形に添うように、もの静かにニコニコとして番茶を勧めて下さった。ほんとうに観音菩薩のお顔のようだと思った。
願行寺以来の門下の人達や新しく参加された人々が、毎週一回先生を中心に勉強会を続けていられたが、私は遠方であるので、そのゼミナールに出席することはできない。精々先生を中心に研究されたものや、先生の書かれたものを印刷して送って頂く位で、それもなかなか内容がむずかしいので分からないものが多かった。
昭和二十五年に小倉謙さんが愛知県国警隊長として着任された。小倉さんは東京帝大の学生の時代から先生について勉強していて、『一』をはじめ先生の著書などをきちんと揃えて持っていられたので、私が病気中だった頃の先生の講義の印刷物を借りてきて勉強した。特に、仏教関係の『史的禅宗観』及び、釈尊の教えを説かれた『正覚について』を勉強し、戦後の『ヴァヤダンマー・サンカーラー』『釈迦仏陀本紀』及び『本紀余論』につないで勉強した。
しかし、サンスクリットやパーリ語の勉強はできないし、ドイツ語も碌に読めないので、とうてい十分に理解などという訳にはいかぬ。自分なりに分かるところを読み、かつ考えるだけである。また、上京の折にお伺いしてお話を承るにしても、長い時間ではないので、講義を承る訳ではない。その時々に先生の書かれたものについてや、先生の御心境、世上の事柄についての御感想を話されるのを断片的に承るだけである。それでも、先生にお目にかかりお話を承るだけで心が洗われ、心中のいらだちや疑念が落着き、不安が消えるように思われた。そして、ヴァヤダンマー・サンカーラーの語を心の中で繰り返しているうちに、最初にお目にかかった時に、先生が「見当はついたか」と申された意味が、段々と見当がついてきたように思った。しかし、物になることのむずかしさはますます大きくなった。
そのころのお話の中から、思い出の深いものを日記を拾いながら記すことにする。
昭和三十六年四月八日(日曜)
一〇時頃久方振りに先生にお目にかかった。先生はお元気で、足は不自由であるが手は自由で、耳もまあ健全だと言われて熱心に話をされた。
仏教の日蓮、天台、真言、念仏などの各宗派は畢竟何れも般若実相の理に立ちながら、その方法論に迷っているのである。 釈迦もガヤーでは、従来のブラフマンとアートマンのウパニシャッド哲学の理念を脱却して、五蘊無我を体験したが、五蘊無我に徹底して、「アーユサンカーロー・オサットー(Ãyu-samkhãro ossatto)(ssとttの下に点) 」を体験し、ヴァヤダンマー・サンカーラーを宣章されたのは八十歳の遷化三か月前のことである。 これは、人類の経験において空前絶後ともいうべきものである。したがって、他の言葉で翻訳することはできないし、普通の理知・理性で追及することもできない。その体験によって実修するだけである。 「私はこのオサットーを消えたという自動詞で読めたときに、はっきりこの言葉が分った。ところが、釈尊の正覚は侍者の阿難(アーナンダ)さえこれを「寿命を捨てた」と他動詞で受けとり、その後の仏教もこの肝要を失って、正覚とは何ぞやということを理知・理性で解釈した。その答案が一切経である。 自我は記憶の集積からそれが存在であると錯覚しているが、それは作用に他ならない。ベーダナー過程から成立した知覚と、サンカーラー過程から成立した観念を混乱したことが間違いのもとだ。観念は感覚、知覚を内容として構成されているが、それは直接の実感ではなく、サンカーラーによって抽象され、整理されて組織されたものである。そのため、自我の欲求によって理性が歪曲(わいきょく)され観念は勝手に拡大されて、永遠とか不死とかの観念が構成されるのである」と教えて下さった。 |
昭和三十六年十二月二十七日
先生のお宅にお伺いした。先生は床の上に起き上がられて、お話して下さった。釈尊のお話をされ、「近頃東映の釈迦の映画が釈尊を冒涜しているというので問題になっているようだが、従来の仏教も釈尊の正覚を真にわかっていないことでは同じようなものである」などと話され、さらに、先般池田勇人首相が、渡米した時にコロンビア大学で名誉博士の称号を受けて、それに対し、池田総理の後援会の事務局長の田村敏雄氏が、そのお礼に、『釈迦仏陀本紀』と『本紀余論』を送るというので、千谷七郎氏がその紹介文を書き、風間喜代三氏が英訳して、贈ったことについて話されて、「アメリカで分るかねー」と言われた。そして、先日文部省の学者を数人連れて来たが、「話をしても分らないね。権力のある人はそれに頼るので、話をしても人の言は受け入れないものだ」と話をされた。
この話に出た田村敏雄という人は時々先生を訪ね、教えを受けたようなお口ぶりであったが、どういう人か私はお会いしたこともないし知らなかった。後に沢木耕太郎氏の論説『危機の宰相』(文芸春秋五二年七月号)を読んで、田村敏雄氏の人となりを知って、成るほどと思った。あの頃、国土開発計画や経済計画がいろいろ策定されたが、その中で、池田内閣の所得倍増計画がずば抜けて時代に適合し、内閣の政策として実行されて、我が国の経済発展の基本をつくった理由が理解できた。そして、この計画の裏にある田村敏雄氏や下村治氏のことを知った。計画というものは人を得なければ結局ものにならないと感じた。 また、いつであったかはっきりしないが、三宅正太郎先生の話が出た時、「三宅もそのうち、暇になったら勉強に来ると言っていたが、ついつい私より早く逝ってしまった」と話された。 |
昭和三十八年八月三十一日にお伺いした時は、床の上でラジオを聞いていられたが、お元気で話をされた。
「ヴァヤスは次々に消えてゆくが、これがダールマー(正法)となるサンカーラーが正覚である。書経の咸有一徳編の井尹の「徳惟れ一なれば動いて吉ならざるなし、徳二三なれば動いて凶ならざるなし」という言葉がこれを道破している。これを固定しようとして形而上学が生まれる。」と述べられ、「これまで正覚者として私が分った者は一六人ある。支那では堯、舜、禹、湯王、井尹、文王、周公、孔子、顔回、日本では、紀友則、宝井其角、印度では釈迦、舎利弗、阿育王(アソーカ王又はアショカ王)、法華子、西洋ではゲーテである」と言われた。
紀友則は『新古今集』の歌人で、百人一首にも
久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらん
の歌が入っている。
宝井其角の句は、
明星や桜さだめぬ山かづら
行く水や何にとどまる海苔の味
などを先生は時折り教えられた。
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昭和三十九年二月十三日の日記によれば、先生の言葉として、「剣道では男谷精一郎が江戸時代最後の人といってよく、道を得ている。元治元年に死んで、日記が残っているが、極意ということを何も書いていない」、「極意とか流派というものは畢竟妄想で、ただ熟練あるのみだ」と話された。
この男谷精一郎は勝海舟の従兄弟に当り、祖父は盲目の人で、越後から杖をついて江戸に出て、理財の方にすぐれ、男谷検校(けんぎょう)となった人で、父は郡奉行などをやった。精一郎は江戸の町道場主から講武所頭取下総守となり、のちに将軍家茂の親衛隊長として六千石を受けた人物である。富永先生は塚原卜伝・宮本武蔵をしのぐ古今の達人であると評された。
うけゑたる心のかがみ影きよく けふ大空にかへるうれしさ
の和歌を辞世に詠んでいる。
武道のついでに、富永先生が話をされた兵法の書、『孫子』について述べてみる。
孫子は中国で最も古い、最もすぐれた兵書で、中国の兵書でも、それを受けついだ我が国の兵書でも、これに及ぶものはない。その思想は、孔子の『論語』と相通ずるものである。孫子一三篇の中、一般には始計第一や用兵に関する戦略が多く世上で説かれているが、最もすぐれているのは用間篇である。
用間篇には諜報、謀略について述べているが、その中に「三軍の親は間より親しきは莫し、賞は間より厚きは莫く、事は間より密なるは莫し」という言葉についで、「聖智に非ざれば間を用うること能わず、仁義に非ざれば間を使うこと能わず。」と述べている。これは儒教の思想と一致するもので、孔子は政治・道徳の方から説き、孫子は戦の方から説いているが、真に間者を用い、政略を行うには、用いる者は殷の湯王や周の文王のような聖人であり、用いられるものは、伊摯(いし)(井尹)や呂尚(ろしょう)(太公望)(たいこうぼう)のような、仁義の将相でなければならないし、「微妙な実を得る」こともできないことを孫子は説いている。ここがほんとうに分からないで、戦争を起こしたり、政略を行えば謀略によって国を滅ぼし、自分の身を失うことになる。と先生は教えられた。
考えれば、このことは行政や企業経営においても同じことで、自分達凡人はただ正直、誠実に心がけ、なまはんかの謀や策を用いてはならぬのだと思った。現在盛んに用いられている情報とか、広報も用間の一種であって、真実を知り、これを明確に知らせることがいかにむずかしいか、また大切であるかということを知らなければなるまい。
最後に先生にお目にかかったのは、昭和四十年二月十日であった。その日お宅に参上したとき、ちょうど若い二人の女性の方と話をされていた。鶴のような痩躯ではあるが、血色もよく、元気な声で話された。「自分は、ヴァヤダンマー・サンカーラーを二五年間無解実習し、その功徳によって昭和三十五年頃から微解実習となり、今年に至ってはっきり正解実習となった」と淡々と話された。
先生はそれから間もなく昭和四十年五月六日、享年八二歳で、浦和市大谷場の千谷七郎氏のお宅で帰寂された。五月七日門下の人達が集まり、荼毘(だび)に付し、五月八日富永家代々の菩提寺東京都杉並区梅里の慶安寺において葬儀が営まれた。
この葬儀が終わった時に、最後まで先生の身近のお世話をされるとともに、先生を中心にして門下の人達と「富永先生の会」の運営に当たってこられた千谷七郎氏は、「先生の亡き後に奥様のお世話は責任をもっていたしますが、例えば富永宗というような一宗を建てる積りはありません」と宣言された。
その後も、有志の方々は定期に集まって、研究をされているようだ。そして、一周忌には、先生のお墓を慶安寺の祖先の墓に並べて建て、一周忌、三年忌、七年忌、一三年忌と先生の教えを受けたものが慶安寺に集まり、法要を営み、思い出を語っている。
先生の一七回忌に当たる昭和五十六年五月五日には、各地から富永先生のご遺徳を偲ぶ人達が六七名集まり、慶安寺において、簡素ではあるが、心のこもった法要を営み、懇談した。その席では、先生の全集出版の話もあったが、出版はむずかしいようだ。
釈尊もその教えが盛んになったのは、阿育王以後で、それ以前は、「釈迦を神の如く崇敬する小さな教団があった」という記録が、阿育王の前にシリア国王の使節として印度に駐箚(ちゅうさつ)したメガステネスの『インド見聞記』の中に書いてあるという。
正論は常に「静かな細き声」であり、本物はなかなか理解されることがむずかしく、ブームとなることはない。また、宗教家とか思想家とかいっても、生きている中に<生き神様>とかいわれて大衆にもてはやされるようなものには本物はないようだ、などの話も出た。
千谷七郎氏と著者-----千谷氏の書斎にて |
しかし、富永先生については、先生が願行寺時代に講義されたものを記録した『一』や、戦後の『蓮華展方』『ヴァヤダンマー・サンカーラー』『釈迦仏陀本紀』及び『本紀余論』二一巻があり、その他門下によって作られた年表や、先生についての記録などを集めたものがある。
先生の門下や富永先生の会の会員として教えを受けた人達の著書には、仏教学者としては大野達之助氏(駒沢大学教授)の『新稿日本仏教史』『聖徳太子の研究』『日蓮』等がある。
千谷七郎博士(日本女子医大名誉教授)は、ドイツのルードヴィヒ・クラーゲスの思想と根本仏教とを対比して研究された『五蘊の人間考察――クラーゲスの哲学と根本仏教との比較において』、『遠近抄』等多くの著書がある。また、今泉準一氏(明治大学教授)は『元禄俳人宝井其角』、『五元集の研究』がある。風間敏夫氏(法政大学教授)の『新釈碧巌集』、桜井保之助氏(国際商科大学教授)には『阿波研造――大いなる射の道』をはじめ、同氏の国会図書館専門調査員時代の多くの論文が発表されている。
また、先生を中心に門下の人達が研究された、ゲーテが晩年において不思議な心理的転換によって書き改めた『ファウスト』の第二部についての研究と、ゲーテが生前において、ファウストを封鎖したという驚くべき事実に関する一八三一年十二月一日付及び、一八三二年三月十七日付、ウィルヘルム・フンボルト宛書翰その他の晩年の書翰と日記、『アソカ王詔勅語彙(Glossary of Asoka Edict)』など多くの参考書がある。
これらの多くの著書・論文・資料については、私の如き浅学、微力の者が全体について勉強し、理解することはできないが、自分なりにできるだけ勉強させていただき、参考とさせていただいた。
これまで富永先生との出会いについて述べ、その中で先生がお話された人間思想の根本としての釈尊の正覚について、先生のお話を断片的に述べてきた。先生は従来の日本の仏教について研究され、さらに深く、東西の仏教学者の研究についても研究して体験をつまれ、釈尊の正覚を明らかにされた。そして、それを『釈迦仏陀本紀』及び『本紀余論』に述べられた。それは深遠で、とうてい私が説明できるようなものではないが、私が先生の教えを受け、それを受取り得たかぎりにおいて、私の思想の基本となり、私の法律や行政についての考え方の基本となっているので、それを敢えて述べようとするもので、先生の教えを説明するためのものではない。
富永先生が釈迦の正覚の完成とその内容について述べられた、『釈迦仏陀本紀』の前書きに、「初め禅宗にたづさわることおよそ十年、次いで日蓮宗にかかづらうこと十有余年、其の間天台・真言・念仏にたよりを求めて心に得ず、遂に什(じう)訳法華経の疑を解かんとして、原本法華経を閲(よ)むに当たって、涌出品のリディアビ・サンカーラー(rddhy-abhi-samskarã) (rddhyのrの下に点、samskarãのmの下に点) の辞句に思いよることあり、爾後サンカーラーに関する直下の仏言をパーリ涅槃(ネハン)経の末語に省ることを得た。時に昭和十二年の初夏の或る宵である。日頃依頼して置いたパーリ涅槃経の代りにもとて、コペンハーゲンの大学教授アンダーソン(Anderson)編纂のパーリ語読本を千谷君が持って来て呉れた。其の中に涅槃経第六章の仏涅槃の時の第五章から第十章までひいてある其の第七節を読んだ時である。何もかもなく心を引き付けるものを感じて、appamãdena sampãdethã’ti(たゆみなく精進せよ)とある通り、 vaya-dhammã samkhãrã (samkhãrãのmの下に点)(ヴヤー ダンマー サンカーラー) と唯自分の好みに放せず決定専念してみようと心が決ったのである」と述べられている。
このように、先生はサンスクリットの原本法華経を精密に検討心読され、涌出品のリディアビ・サンカーラの語を見出されるとともに、従来の法華経は涅槃思想によって曲解・歪曲されている。真の法華経は釈迦の正覚に徹見した無名の菩薩(法華子と仮称された)によって、紀元前一〜二世紀頃に作られたものであることを明らかにされて、その後に附加されたり、歪曲されたものを削除・訂正されて『根本法華』として講ぜられた。これは後に『蓮華転方』として印刷された。
釈尊の樹下成道と、その後の釈尊の正覚の内容については、『ヴァヤダンマー・サンカーラー』『釈迦仏陀本紀』として整理しまとめられ、さらに、この釈迦の正覚の内容を『書経』・『論語』等の孔子の思想、及び西洋ではゲーテの『ファウスト』や、ウィルヘルム・フンボルト宛絶筆書簡等と対比検討されたものを『釈迦仏陀本紀余論』として、日記体で書かれた。これを印刷したものは全部で二一巻、二、三五一頁に達している。
この釈尊の正覚の内容について、私がここに説明することはとうていできない。ただ、先生の説かれたことを自分なりに勉強しているに過ぎない。
幸いに、前に先生の話の中で述べられた、池田総理がコロンビア大学から名誉博士の称号を贈られた返礼の一つに、田村敏雄氏が先生の『釈迦仏陀本紀』と『本紀余論』を同大学に贈呈した。その時に、これについての説明文を先生の門下で『本紀』『余論』の編纂に当たられた千谷七郎氏が書かれた文をいただいているのでこれを引用させて頂くことにしたい。
「釈迦仏陀本紀及び其の余論は、在野の人、富永半次郎先生(一八八三・二・二・〜)の一九五〇年以降の執筆を、門下の者の手によって刊行したものであります。つまり、書店発行にかかる書ではないのです。それは今猶続けられている。御執筆の主旨が門下の為のものなので、当然と言へば当然のことなのですが、一面においてそれは本書の内容が釈尊の教へに関する一切の伝統並びに現行の解釈と懸け離れていることを物語ってもゐます。つまり、釈尊の遺訓の真意は先生によって始めて明るみに出されたと言ひうる、真に驚くべき事柄を含んでおります。日本国内でも本書を続けて購読してゐる人はせいぜい百人余といふ数です。到底一般向きといふわけのものではなく、これを一般の見解に較べるならば、譬へば三六〇度の転回を必要とするとでも言へませう。併しながら世界人類が今日の如く紛糾争闘に明け暮れしないで、真に人間らしい人間となるためには、この三六〇度の転回は必要欠くべからざるものであることを確信します。
釈尊の教へは、それを信奉すると、せざるとに係らず、また洋の東西を問はず、涅槃、もしくは禅、或は両者の一致である如く解釈されて今日に至っております。併しながら、パーリ大槃涅槃経に伝へる如く、釈尊が死の三ケ月前、チャーパーラ神樹下で阿難に告げられた satena sampajãnena ãyu-samkhãro ossatto(-samkhãroのmの下に点、 ossattoのttの下に点) の言と、それに引き続いて近在の比丘達をマハーヴァナ附属衆堂に集めて告げられ、更に最後の言として繰り返された vaya-dhammã samkhãrã, appãmãdena sampãdetha(samkhãrãのmの下に点) に依拠する限り、伝統並びに現行の一切の解釈が間違ってゐることが明らかにされ、この vaya-dhammã samkhãrã(samkhãrãのmの下に点) の無解の実習こそ、人間が真に人間らしくなることの出来る実習行法であることが、身を以て述べられてゐます。これが本書の骨子であり、展開であります。 涅槃思想が釈尊の最後の教へでもなく、その発生成立はアソーカ王以降であることは、王の数々の詔勅碑文からも想定されるところでもありますし、西紀前一〜二世紀の頃に成るsaddharmapundarikadharmaparyãya(pundarのuとnの間の下に点、nとdの間の下に点) も、明らかにその教説は涅槃思想の非定にあるのであります。併しながら、この法華経も伝統の涅槃思想で覆重され、歪曲曲解されて今日に至っておりましたので、これまた先生の原典批判によって、法華プロパーとでも言ふべきものの相貌が明らかにされて、取り出されたのが蓮華展方であります。従って余論ではこの蓮華展方が詳しく論じられて、釈尊の体験との同異が比較批判的に検討されて行きます。 さて、釈尊によって示された人間完成の相貌は、上述の如く、極めて簡潔な表現であり、しかも体験の直接表現でありますので、これを理論的にわからせるといふことは、樹によって魚をもとめると同じに不可能なことなのです。しかも、この不可能性を知ることから vaya-dhamma samkhãrã(samkhãrãのmの下に点) の無解の実習が生れることにはなりますが、このこと自体必ずしも容易ではないと思はれます。併し、幸ひのことに、といふよりは当然のことなのですが、釈尊によって示された人間完成の出来事は古代印度人に限られてゐないことです。無論、釈尊ほどに間然するところのないほどの表現ではありませんが、尚書の「咸有一徳篇」の人、論語を通しての孔子、「不可思議な心理的転換」の結果完成を見たファウスト第二部を通してのゲーテ、日本の俳人其角其の他が人間完成の人として知られて来ます。そして不思議なことに此の人達が凡べて正解されないで今日に至ってゐることですが、この不思議も不思議でなくなって参りませう。 そんな次第で、本書は釈尊晩年の体験を中心とする古代印度精神史を縦糸とし、それに支那の尚書の咸有一徳篇の人及び孔子、ヨーロッパでゲーテ、日本の其角其の他が、それぞれ横糸となって織りなされて、世界史における人間らしい人間像の文様が繰りひろげられて行きますが、畢竟は vaya-dhammã samkhãrã(samkhãrãのmの下に点) の無解の実習に資するためのものです。 そしてこれを展開してゐるこの余論は凡べて先生の日記であります。従って前に挙げた咸有一徳篇の言を藉りるならば、「日に新たなる」人生が、この地球上の一角で現に続けられてゐる記録でもありますから、此処に今後二度と見られないであろうと思はれる貴重な人間年代記を見られることにもなりませう。」 (一九六一年十一月廿五日 編者しるす) |
以上述べてあるように、富永先生の『釈迦仏陀本紀』及び『本紀余論』は、釈尊の正覚を先生自らの研鑽と体験を通し説かれたものであるとともに、古今東西の人類文化の歴史において、人間完成、人間精神の真実を述べていられるのである。
先生は前にも触れたように、世間でいう宗教家でも、教育者でもまた哲学者でもない。あるいは真の宗教家であり、教育者であり、哲人であるというべきかもしれない。
先生は講述される場合にも、「諸子がこれを宗教として信仰しても、哲学として理解するも、学問的知識として勉強するも諸子の自由である」と話されて、求むる者には誨(おし)えて倦(う)まずという態度で接せられた。したがって、先生の教えを学ぶには、ヴァヤダンマー・サンカーラーの無解実習を続けながら、先生の説かれるものを、それぞれの体験と機根によって学んでいくしかない。
私のように学も浅く、機根の劣っているものは、先生の教えを学び道を求めるといっても、それを説く資格はないが、前にも述べたように、ただ自分の学んだものを復習し確かめ、少しでも明らかにしたいというために、釈尊の正覚について自分なりに学び得たものを書いてみることにしたのである。
釈尊の正覚についての一つの鍵は樹下成道における五蘊正観である。
人類の思想において、形而上の精神を最も精緻徹底的に追求したものは古代印度のバラモン(僧侶階級)のウパニシャットの哲学である。それは宇宙最高の統一原理としてブラフマン(梵)の実在信仰であった。そして、このブラフマンとの一体に到達することによって、人間は永遠不死に到達できると信ぜられた。このブラフマンと一体になるには、人間精神の純粋の極致であるアートマン(純粋究極の理性)を発揮することであった。その梵我一体のための修業としては、禁欲と苦行と精神統一(三昧)による禅観であった。
古今東西の宗教といわれるものは、何等かの宇宙統一の絶対者としての神と人間の心との一体性を説くが、その理論の精緻と実習方法としての観法や苦行の方法の徹底していたのは、ウパニシャットの修行者達であった。
その修業は断食の苦行と禅観で、禅観は後世の禅宗の禅ではなく、印度古来のヨーガ(yoga)とディヤーナ(dhyãna)であった。ヨーガは一つの観念に意識や人間の諸感覚が外に漏れないように官能を拘束する方法で、ディヤーナは意識の内容を一つ一つ整理淘汰して一つの観念に統一するものである。何れも自我(アートマン)と梵(ブラフマン)の一体の意識に到達するための観法である。
古代印度の僧侶(バラモン)や貴族(クシャトリヤ)階級の人々は、家長期を過ぎると経済や政治を離れて出家し、山野で修業することによって、永遠不死の生命を得るという最高の段階に達することを目差していた。
釈迦はゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)と言い、釈迦族の太子の位にあったが、人生の生病老死の無常を観じ、不死のアートマンを求めて、二九歳で王位を捨て山中に入り、偸伽(ヨーガ)師について禁欲苦行と禅観を凝(こ)らした。
苦行六年の後、釈迦はその天成の英資によって一道の光明を得た。禁欲苦行の窮極は苦痛のみで、正しい修業方法でないと悟り、苦楽両極端を却ける中道の修業に気づき、ヴルヴェーラの近くのニグローダ樹下に安座して、五蘊についての観法を深め、省察の結果、五蘊にはアートマンはないという、五蘊無我の体験に達し、仏陀となった。これは富永先生の『ヴァヤダンマー サンカーラー』に述べられている。
釈迦はアートマンを求めて出家し、そのアートマンの消失によって、生死解脱を得た。
それは人類の思想において、窮極概念である梵と自我の消失による人間完成という空前とも言うべき体験であった。
五蘊は漢訳では、色受想行識の五界で、色(rupa)、受(vedanã)、想(saññã)、行(sankhãrã)、識(vijñãna)の五つによって、外界と交流する人間内部の諸過程の五つの要所を述べたものである。これについては、玉城康四郎編『仏教の比較思想的研究』(東大出版会発行)の中で、千谷七郎博士が『クラーゲスの哲学と根本仏教との比較において』に、サンスクリットとドイツ語と漢訳とを比較対照して語の内容を詳細に説明している。
色・受までは、動物としての人間の機能過程である。行は色受に照応して仕上げる内部行動であって、抽象するための作用で、五蘊の舵取りあるいは展開の軸に当たり、その結果が識と想になる。識は識別であり、想は想得であって、人間だけがもっている働きである。五蘊は一列に考えないで、色受過程と想行識という過程と二段で考えるのがよい。
この中で行は漢訳では「行(ぎょう)」と訳されているが、それは行為だけにとどまらないで、「諸行無常」といって存在の意味にも用いられ、外界の存在と混同されている。行は直接意識することはできない作用で、意識されるものは、それが働いた結果である想と識である。すなわち生の体験と精神との再融合の場であるということができる。
古来多くの哲学や科学は、サンカーラーの作用を見落として、識を重視し、それを理性、理念などと称して、そればかりを使い回して、釈尊出家当時の時代的潮流と同じように、禁欲苦行的な身心分離に陥いっていた。
釈尊は、樹下の没我の体験によって、五蘊観の成立をみ、サンカーラーこそ分離した身心の再融合の場とみたのである。このようにみると、人間だけに自我、正しくは自我意識が成立し、固執されるのはサンカーラーにおいてであることがはっきりしてくる。
自我はこれをよく省察するなら、一方では常に変化して止まぬ生の現象でありながら、他方では生まれてから以後死ぬまで一貫した不変常住のいわば理体である。いな、それどころか死後の永遠までも希求している。この二重性こそ人間存在の二重性、畢竟してサンカーラーそのものの二重性ではなかったのではなかろうか。
釈尊は樹下成道によって、アートマンが消失し、五蘊無我の体験を得られた。無我を証得し、身体も心も泰安を得て成道され、最初の説法(初転法輪)に「五蘊無我」「不死証得」を宣べられた。
そして、この基礎に立って五十年にわたる教化活動を続けられるとともに、省察を深められた。しかし、釈尊と門下の弟子達の間にはしだいに大きな隔たりがあった。それはアートマンの追求をしている自我を観念で否定しても、それで簡単に消失するものではない。ひたすら釈尊の説法を信じ、これを我が身にうけた弟子達は、五蘊にはアートマン(大我)はないと理解した上で、そのないところを神聖化して把握するのであった。絶対者を否定した師の教えを、弟子達は新しい絶対として受け入れ、涅槃空の思想に発展したのであった。
八〇歳になられた釈尊は故郷に向かわれた。その途中で、ナーランダで病のため退養していた愛(まな)弟子舎利弗(サーリプツタ)を見舞われた。この時舎利弗は「尊師 私は師についてこのように甄明(せんめい)になりました。師より勝れた認識を有する他の沙門あるいは婆羅門は過去においても居らなかったし、将来にも居らなかったのであろうし、現在も見ないということであります」と述べた。
釈尊はこの舎利弗の獅子吼(ししく)を聞かれ、さらに生死不安をつくる自我執着心を五蘊の一つ一つについて一層省察すること(sato sampajano=正念正智)を自分に求められ、弟子にも説かれて行脚(あんぎや)を続けられた。ヴェーサーリ近郊のヴェルヴァ村で雨安居(あんご)をとられた折の重病から恢復されたとき、侍者の阿難(アーナンダ)が、「師の滅後の僧伽(サンガ)(僧団)維持に対して、ご指示をいただきたい」とお願いしたのに対し、「私が今更僧伽に対し指図などすることはない。各自自らを光とし、その他を依処としないように。教えを光とし、その他を依処としないように」と諭(さと)されて、前に述べた正念正智(sato sampajãno)を従膺(しょうよう)された。
そして、病癒(い)え雨安居の終わったある日の朝、行乞(ぎようこつ)を終わって、侍者阿難に命じ、チャーパーラ精舎に赴かれ、一樹の下の設けた座につかれて、省察のひと時を過ごされている時に、阿難を呼んで、「阿難、今チャパーラ精舎で省察している間にアーユー・サンカーラがなくなった(ãyu samkhãro ossattho)(samkのmの下とttの下に点)」と告げられ、次いで、近郊のマハーヴァナ衆堂にヴェーサーリ周辺の比丘(ピク)達(僧達)を全部集められて、ヴァヤダンマー・サンカーラーの宣章となった。(Vayadamã samkharã, apamãdena sampãdethã)(Vayadamaのmの下に点、samkharãのmの下に点)
このアーユ・サンカーロー オサットー・ヴァヤダンマー サンカーラーの言葉が前に述べたように、富永先生が我々に説かれた釈尊の正覚の言葉である。
釈尊はマハーヴァナの宣章の三か月後、最後に今一度、
vaya-dammã samkhãrã appamãdena sampãdetha ti ! (-damのmの下に点、samkhのmの下に点)(ヴァヤダンマー・サンカーラーとたゆみなく精進せよ)と教示されて入寂された。
これが如来最後の言葉であったと、パーリ涅槃経は書いてある。
釈尊の入寂直後に直(じき)弟子達が集まり、大迦葉(だいかしよう)が主座となって、仏陀の教説の編集が行われた。これを第一結集(けつじゆう)という。ここに戒律と経典の原型が作られた。そして、釈迦を宗祖とする仏教教団の組織が整い、マガダ国を中心として東部印度に広まり、しだいにその教勢は興隆に向かった。教勢の拡大に伴って、教団内部にその戒律について紛争が起こり、長老達が会議を開いて教典の編集を行った。これを第二結集と呼んでいる。それに対しこの会議に承服しなかった革新派の僧侶は別に結集を行い、旧来の教団から独立の教団を樹立した。これがいわゆる大衆部であり、旧来の長老達の派は上座部と呼ばれ、僧迦は大きく二つに分裂した。
この頃マガダ国に阿育王(アシヨーカ)(BC三〇四〜二三二)が出て、ほとんど印度全土を統一して大帝国を建設した。王は東南印度のカリンガ地方を征服した後、戦争の惨禍を経験し、勝利者の悲哀を観じて仏教を信仰し、苦心の修業ののち、即位潅頂第十一年に正覚を体験した。その体験と、それに基づく道徳規範を法(ダールマ)(dharma)と呼んで、「衆庶が王のダールマを遵奉し、其の増大によって向上進歩あらんがために」岩石・石柱・石板にこれを銘記せしめて国内各地に配置した。一七五〇年その刻文の一部がはじめて発見されてから約二五の刻文が発見され、学者の研究によって九分通りまで判読されるようになった。この資料は富永先生の会の雑誌『一』の第一三号に特集されている。
阿育王の治世に第三結集が行われたともいわれるが、これは確証はない。王によって仏教は全印度に広まった。在位中はその威徳によって教団内部の紛争も抑えられたが、その没後は内部分裂を起こし、大衆部・上座部の二派がそれぞれ自派の教説の正統を主張し、各部派が独自の経蔵と律蔵を有するようになった。それらの経典を総称して阿含(伝承の義)経という。この阿含経の仏教は釈尊の教のヴァヤダンマー・サンカーラーをアニチャー・サンカーラー(aniccã samkhãrã)(samkhãrãのmの下に点)(諸行無常)と同義に解し、サンカーラーを否定して涅槃常住追及の涅槃但空思想として伝承され、後に二乗阿羅漢仏教と称される。
これに対し、大衆部系の自由派の系統を引きながらも、二乗阿羅漢の形式主義を打破して時代の要求に応じ、釈迦の精神を復活しようとして起こったのが大乗仏教である。彼等は自分が仏陀の真意と確信した思想を、仏陀に仮託して説いた。冒頭に「如是我聞」と述べ、その表現も阿含経典の教訓的・説明的なのに対して、概ね文学的・戯曲的体裁をとり、哲学思想を表徴化し表現している。そして、実践によって自ら仏陀の境地を発揮することが共通の目的となっている。仏陀となることは最高の理想であるが、そこに到達することは容易ではないので、仏陀を志すもの、即ち菩薩(bodhisattva)となって上求菩提・下化衆生といって、自身に正覚を求めるとともに、すべての衆生の救済に主眼を置くようになり、これを大乗菩薩道と呼んだ。
この大乗仏教を教学的に大成したのが竜樹(りゆじゆ)(紀元一五〇〜二五〇頃)であった。竜樹は大乗般若(はんにや)思想を大成し、『中論』『十二門論』『大智度論』など著述が多く、後世の仏教に大きな影響を与えた。二乗阿羅漢の涅槃但空の思想を止揚して、般若中観の思想を大成した。さらにその後、四世紀頃に無著(むちやく)、世親(せしん)の兄弟が出て唯識(ゆいしき)説を組織立て、無著には『摂大乗論(しようだいじようろん)』、世親には『唯識二十論』『唯識三十頌(じう)』等の著作がある。その後五世紀頃には馬鳴(めみよう)の『大乗起信論』が出て、衆生の心に本来具有している如来蔵として仏説を説いた。
しかしながら、これらはいずれも五蘊における識を重視したもので、釈尊のヴァヤダンマー・サンカーラーを失却した般若思想である。その間において、紀元前二〜一世紀頃に富永先生が法華子と呼ばれる無名の一菩薩がはじめて釈尊の真義を明らかにした。それが即ち法華経であった。しかし、法華経もその後般若思想に覆重されていった。そしてそれを正したものが前に述べた先生の『蓮華展方』である。
印度の仏教は七世紀以降、しだいに衰微して、古来印度の民間で行われた咒術・祈祷が大乗般若思想の仏教哲学と結びつき、大日経、金剛頂(こんごうちよう)経の経典を依拠とする密教が盛んになった。仏教の精神は衰微堕落して印度教の中に姿を没した。
印度の仏教は西域地方に普及して行き、紀元一世紀、後漢の初め頃から中国に伝わり、仏教の経典も伝えられて次第に漢訳された。そして、三国時代から五胡十六国の興亡が続く頃には、西域の胡人の往来が多くなり、仏典も多く伝来し訳経も盛んとなった。後秦の弘始三年(四〇一年)に鳩摩羅什(くまらじゆう)が長安に来て、多数の大乗経論を訳出した。羅什は中国語にも精通しており、前代までの訳の晦渋なものに比し、その訳は暢達で勝れていた。中国の仏教は羅什によって面目を一新した。
六世紀に天台智者大師智(ちぎ)が現れた。智はこの羅什訳の『妙法蓮華経』を中心にし、『大智度論』『涅槃経』『大品般若経』により体系化した。それが天台宗である。経文をすべて釈迦一代の説法の発展として分類整理し、一大仏教体系を確立した。天台宗の教理の中心は諸法実相の理である。諸法は、十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏)を種々の角度、関係から見た三千の法をさし、実相とは、それら諸法の真実ありのままの様相を意味する。この三千の諸法を迷妄の一念が本来具有していて、空に即して仮、仮に即して中、中に即して空と、空仮中相即の関係にあると観ずる実修方法を立てた。
この観法に対し、教化別伝・不立文字を唱えて、座禅即ちヨーガ又はディヤーナの実習によって、形而上の思弁の壁を打破し、心の自由、廓然無聖の確固、玲瓏の心境を達成しようという禅宗が成立した。この禅宗については、富永先生が思想史的にその発展を検討され講義された『史的禅宗観』がある。
一方印度で成立した密教は唐の玄宗皇帝の頃中国に伝わり、天台の大乗般若実相の教理と結びつき、わが国に伝来され最澄の台密、空海の東密となった。
仏教は古代において中国から朝鮮半島の高句麗・百済・新羅と伝わり、百済から我が国に伝来した。
仏教が我が国に公的に伝来したのは、『日本書紀』によると欽明天皇十三年壬申(五五三年)となっている。しかし『上宮聖徳法王帝説』などではこれを欽明天皇の七年戊午としている。百済から釈迦仏金銅像一駆、幡蓋若干、経論若干巻を献上し、表文をたてまつって流通礼拝の功徳を述べたという。
しかし、民間には、それよりも早く帰化人などが仏像を礼拝していた記録もあるので、仏教も帰化人などを通じて相当早くから我が国に伝わったと考えられる。また、儒教はもっと早く応神天皇の朝に百済から論語・千字文を献じ、博士王仁が来朝したという記録がある。百済は早くから新羅に対抗するために日本と連携を求め、我が国と文化的な関係を密にするために、学者等を送るとともに、帰化人等も多数渡来していた。こうして相当早くから大陸との文化的交流があった。仏教を中心とした大陸との関係や、聖徳太子の政治については、大野達之助著『新稿日本仏教史』及び『聖徳太子の研究』がある。また近年、梅原猛著『聖徳太子』(第一巻仏教の勝利、第二巻憲法十七条)及び松下正寿著『聖徳太子――政治家として』などが書かれている。専門的の詳細についてはこれらに譲り、「聖徳太子の仏教と政治思想」について、主として富永先生の『聖徳太子』(『一』所載)によって要点を述べることにする。
聖徳太子の時代はちょうど明治維新の我が国と西洋との関係のように、我が国が朝鮮半島を通じて、大陸との関係が密接となり、中国の文化が流入し、それまで氏族制によって成立していた各豪族を統一し、新しい国家を建設し、文化を振興しなければならない時代であった。
百済から伝来した仏像を礼拝すべきかどうかということについて、帰化人を支配し、大陸文化を取り入れていた蘇我氏は拝仏を主張し、軍事を代表する物部氏は、祭祀を司る中臣氏と結んで「蕃神」を拝むことは国神の怒りを招くといって反対した。そして、朝廷においては物部・蘇我両氏の政治権力の争いと、仏教の崇拝か排仏かの争いが一つになって対立抗争するようになった。そして半島では新羅の勢力が増大して、我が国が半島に建てた任那日本府が滅ぼされ、我が国はその再建をめざし、百済との協力を益々強化する外交政策をとった。その結果、仏教を中心に大陸文化が輸入され、国力の発展をみ、開明派の蘇我氏の勢力が増大して、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、政治の権力を握るようになった。
馬子は用明天皇の崩後に崇峻天皇を立て、次いでこれを弑して、推古女帝を擁立し、聖徳太子はその摂政となった。聖徳太子は摂政として推古天皇を補佐し、強大な実力をもつ蘇我馬子と協力しながら、朝廷の権威を高めた。大陸外交を行って国威を保ち、新しい文化を摂取の上、統一国家を建設しなければならないという困難な事業を進められた。
聖徳太子は、幼少の時から聡明で一時に十人の訴えを聞いて誤ることがなかったといわれた。仏教は高句麗の僧慧慈(えじ)という極めてすぐれた高僧について学ばれ、外典(げてん)即ち儒教関係の四書五経をはじめ管子、墨子、荘子、韓非子などの諸子百家、文選等から天文暦法までを博士覚煤iかくか)について学び、深くそれに通じられた。
太子の政治上の事蹟としては、新羅の征討、冠位十二階の制定、憲法十七条の発布、遣隋使の派遣、国史の編纂等が挙げられる。
太子は仏教については、慧慈を師として広く経論注疏について深く研究され、大乗仏教の真意を理解把握されるに至った。そして、大乗教典の中から、勝鬘経、維摩経、法華経の三経を講ずるとともに、その注疏を作られた。これが「三経義疏(ぎそ)」と呼ばれて現在に伝わっており、中でも『法華義疏』は太子自筆の草本といわれるものが、御物として正倉院文書にのこっている。
太子はこれらの諸経について、先進国の注疏、学説を参照して義疏を作られたのであるが、必ずしも全面的にそれに追随したのではなく、或いは不適当として採択せず、或いは積極的に自説を開陳するという、批判的態度を示している。さらに中国の学匠の注疏を批判・訂正されたばかりでなく、経文の不条理な箇所を指摘し、これに論難を加えている。これは太子が大乗仏教の真意を体験的に会得されていたためにほかならない。
聖徳太子は内政の改革の第一着手として、国家の組織をつくり、冠位十二階を制定した。政治行政に当たる官吏に、それぞれの地位職掌によってこれを授与された。冠位十二階は、徳、仁、礼、信、義、智の六つの徳目をそれぞれ大・小に分けて十二階とされた。この名称と順位については、学者によっていろいろの説もあるが、富永先生は『聖徳太子―――殊に十七条憲法に就いて―――』の講義において、孔子の論語の政治思想によって、仁、礼、信、義、智の五つの徳目を選び、その最上に徳を置き、大・小に分け、その位によって冠の色を定め、貴族、官僚にその冠を頂かせ、官僚に倫理的反省と行政上の責任を自覚させるため、いわば位攻めによって、その職責を明らかにし、政治の基本を官人の道徳的教化に置かれたのであると述べられた。
憲法十七条は推古天皇一七年四月に制定された。これは冠位十二階施行の後五か月目のことである。
第一条に 一に曰く。和を以て貴(とうと)しと為(な)し、忤(さから)うこと無きを宗(むね)と為(な)せ。人皆党(みなたむら)有り、亦達(またさと)れる者少し。是以(ここをもつ)て、或は君父に順(したが)わず。乍隣里(またりんり)に違(たが)う。然れども、上和ぎ、下睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うるときは、則ち事理自ら通ず。何事か成らざらん。 |
この第一条は憲法の目的で、人間集団の条件を述べたものである「以 和 為 貴」(以と和の間にレ点、為と貴の間にレ点)は『論語』学而第一の「礼ハ 之 用(モツ)テ 和ヲ 為ス 貴シト」(用と和の間にレ点、為と貴の間にレ点)から取られたものであるが、偏執的の心情が和合を阻害する根本であることを教え、当時の豪族間の派閥抗争の情勢に対して、上和下睦(やわらきむつむ)社会と政治とを目的とされたものである。特に、上下和睦を命題として示すだけでなく、それを阻害する原因が人の心の中にある、徒党心、利己心にあることを指摘されている。
第二条に 二に曰く。篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬(うやま)え。三宝者(とは)、仏法僧也(なり)。則ち四生(ししよ)の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おほむね)なり。何世(いづれのよ)、何人(いづれのひと)か、是法(このほう)を貴(とうと)ばざらん。人、尤(はなはだ)悪しきもの鮮(すくな)し。能く教うるをもつて之に従う。夫(そ)れ三宝に帰(よ)りまつらずば、何を以て枉(まが)れるを直(ただ)さん。 |
この第二条は目的を達成するための根本方法で、「篤ク 敬 三 宝ヲ」(敬と三の間に二点、宝の後に一点)とあり、「三 宝者(トハ) 仏 法 僧 也」とあることについて、古来太子の仏法僧の三宝についての真意を理解できないで、江戸時代の儒者や国学者などが太子を攻撃している。第一条と第二条は内面的に密接な関連をもっている。第一条では世の中の和合を阻害するものは党(たむら)であり、党には、おもねる、つくという意味がある。つまりは人間の偏執(へんしう)、我執(がしう)の心情であることを指摘し、その党を陶冶、教育する方法として、太子ご自身の体験から仏教を選んで、三宝に帰依するように教えられたのである。この枉(まが)れる心を直してはじめて、第三条以下の我が国の国家体制のあるべき姿と政治や行政の運営についての具体的訓戒を教え、これを遵守するようになるのである。
第三条。 三に曰く。詔(みことのり)を承(う)けては、必ず謹め。君は則ち之を天とし、臣は則ち之を地とす。天は覆(おほ)い、地は載(の)せて、四時順行し、萬気通うことを得。地天を覆(くつが)へさんと欲すれば、則ち壊(やぶれ)を致すのみ。是を以て、君言(のたま)うときは、臣は承(うけたまわ)る。上行へば下靡(なび)く。故に、詔を承けては必ず慎(つつし)め。謹まざれば自(おのづ)ら敗(やぶ)れん。 |
この条は、『管子』『論語』の文を借りて、我が国の国家体制の大義名分を明らかにしたものである。当時は氏族制度の時代で、蘇我馬子が強大な権力を持っていたので、天皇の地位を確立し、国家を統一するために、天皇と群臣の関係を天地の関係と規定し、国家秩序を示したのである。
この原則の下に、第四条以下は第一条から第三条までの大綱に基づいて、貴族や官吏に対し、政治、行政及び裁判に当るについての心得を、具体的に各条において示して、その実現の方法を教えられているのである。
各条章の文章についてはいちいち説明を省略するが、これらの各章の文章は、『書経(尚書)』『詩経』『礼記』『左伝』『論語』『孝経』『孟子』等の儒教々典の他に、『孫子』『韓非子』『管子』『墨子』等の諸子百家の書及び、『史記』『漢書』『文選』などにも及び、これらの文章を自身の体験、思想によって、縦横に駆使した格調の高いものである。
太子の思想は、大乗仏教の中観思想を体験実証した上で、儒教思想や法家などの思想を十分に消化して取り入れたものとみてよいであろう。
富永先生は『聖徳太子―――殊に十七条憲法に就いて―――』に、各条章について説明された総括として、大要次のように述べられている。
問題をしぼってみれば、結局無私という一事が必須となる。無私は『論語』では「之を知るをば之を知るとなし、知らざるをば知らずと為す。これ知れるなり」「未(いま)だ生を知らず、焉(いづく)んぞ死を知らん」と述べている。これが孔子の成功、到達した境地で、「知らぬことを知らぬ」と知ることである。孔子が克己の結果として到り得たものは天命を知ると呼んだ心地である。これが私の無くなった姿である。此の心地に立った所以を彼は又「徳に拠る」と称した。此の徳は即ち徳一であり私心のなくなったことである。ソクラテスも同じ事で「爾(なんじ)自身を知れ」のオリンポスの神の言葉の意を体得した。彼は「自分は智については真実の所は価値なきものであることを知っている」と言った。俺が俺がと、頑張っているもの、ego(エゴ)などというものも、概念として考えているだけで、実は妄想なので実在ではないからなくせる。法華子にしても、このような自我の実在感がなくなった心地を法華経で論理的に鮮明にしているのである。これが太子の「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」であり、「萬善の一因」であり、又徳一なのである。なくするのも、又在ると思っているのも同じ自分であって、しかもその在ると思っている者が、なくそうとする仕事をするのだから非常に難かしい。
その関係は非常に微妙で、大抵の哲学者は形而上学的概念に落ちて行く。孔子にしてもあれほど骨を折って教えても、後世の弟子は次第に概念実在論の方に堕ちて行く。ソクラテスから系統を引くギリシャ哲学にしても同じ事である。仏教の方から説明すれば、何故私が出て来るかと言えば、無明(avijjã)だからと言う。無明だと知った時が明なのである。それを後世の思想家は明を智と解している。それが誤解なので実は無明が無明である事実を知っただけの意味において、強いて言えば明なのである。般若だの実相だのを知ったから明であるのではない。結局は無明であると知った所が真の仏法である。古今東西の達人は皆揆を一にしている。
太子は特に第十条で、 十二曰く。忿(いきどうり)を絶(た)ち、瞋(いかり)を棄(す)て、人の違(たが)うことを、怒(いか)らざれ。人皆心あり、心各(おのお)の執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば、我(われ)は非(ひ)とす。我(われ)は是とすれば彼は非とす。我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚に非(あら)ず。共に是凡夫耳(これぼんぷのみ)。是非の理(ことわり)、言へんに巨(たれ)か能(よ)く定む可(べ)けんや。相共に賢愚なること、環(みみがね)の端(はし)无(な)きが如(ごと)し。是(ここ)を以(もつ)て、彼の人瞋(いか)ると雖(いえど)も、還(かえ)って我が失(あやまち)を恐(おそ)れよ。我独(われひとり)得たりと雖(いえど)も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。 |
と述べられ、「共是凡夫耳」と述べていられる。この「共に凡夫のみ」の心に徹することが、真の明であり、瞋恚の根本は煩悩(ぼんのう)であり、それは我執に発している。このことを自らの体験によって教えていられるのであろう。
憲法十七条の方で「三宝とは仏法僧なり」とあるが、それは三つのものでないということは明らかで、ただ観点を異にして名付けただけである。仏陀(覚者)という一つの心境が釈迦によって発揮されたとしても、それは、我々には認識出来ないものであり、それきりなら我々には用い得ないものである。それが一般の認識にかかるためには四諦観や五蘊観の認識形式をとって説明が出て来なければならない。つまり、それが法である。衆生について仏陀の判断が現れる所に法が成立する。即ち仏陀と衆生との関係において、法というわれわれの認識にかかる形式が生ずる。法は本来は判断で、やがて能化と所化、仏陀と衆生の関係において規定されてきたものが仏滅後の法であり、その伝録されたものが経である。仏滅後には実際は衆生と法だけしかない。しかもこの場合の法は、衆生、僧伽(さんが)の精神に依存している事実に過ぎないのであるから僧伽(僧團)の中に釈尊と同じ公正無私の心地を実証したものがなければ、実は仏もなく、従って法もなく、唯衆生のみとなる。それでは真の仏法が成立しないのである。仏陀という本質の保証がなければ法は日蓮上人の言ったように、去年の暦になるのである。
この仏陀という本質の保証のない、法や衆生には真の仏法はないということの太子の教えを記した天寿国繍帳銘の文に「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」と書かれている。太子自身が経典によって会得された自解仏乗(じげぶつじよう)の仏法を表現されたものと思われる。この「世間虚仮、唯仏是真」は、釈尊入滅の時弟子に示された最後の言葉「ヴァヤダンマー・サンカーラー(Vayadhammã samkhãrã)(samkhãrãのmの下に点)」と内容が全く同一になる。われわれが太子を日本の仏陀として考えるだけの徹底したものである。
われわれの精神は絶えずヴァヤしている。嫌でも応でも固定しているのでなく、消えてくるのが事実であることを教えているので、それを徹底して心得れば我執や、意見の固執は起こらない。
人間はヘーゲルも言うようにメタフィジカーで、何とかして宇宙において特別のもの、永久的な存在でありたい、何とかして自我に絶対の価値を与えたいと思っている。だから宗教でも芸術でも哲学でも大抵自我の永久性、永久の生命の把握に努めている。ヴァヤダンマー・サンカーラーを仔細に玩味し、認識が徹底してみればわれわれに自我(ego)などはない、況んや不死などはない。人間に自我の根性ある限り、いくら論理を巧妙に使ってみても、回り回って結局自己中心の判断が出てくる事になるだけだ。多くの哲学、宗教、文学でも何とかエラそうに言い回しているが、結局は倒錯我執の妄想であり、それに絶対的価値を与える。そしてそれが中心となってあらゆる判断の方向をきめる。世間のあらゆる事件の紛糾の根源がそこにあるのである。人類が救済されることも、平和が期待されることも、この我執妄想が片付かない限り不可能である。
太子は第一条に「和をもって貴しと為す」と言われた。人間の集団生活の組織からの条件が和であるが、和が実現し保たれるためには、道徳・秩序が真に行われていなければならない。しかし不和の真の原因は、つまるところ、自我・私心であって、私心の完全の除去はともかく、何とかしてその程度の薄い人間を作らない限り平和は絶対に期待されないし、秩序は維持できない。太子が第二条に仏法を採用された所以の根拠はそこにある。人間は本能とも考えられる宗教的な根深い心をもっているので、「篤敬三宝」という方法が与えられた。この法は、下根の民衆から上根の学者にまで適用できる。これは単なる他力的手段にのみ終始するものでなく人間が動物性、利己を除くために、「仏とは何か」「法とは何か」と問題を突込んでいけば、最後には自ら成仏への道が明らかにされる方法である。
「篤敬三宝」と「世間虚仮・唯仏是真」の他に、もう一つの太子の仏教に対する思想を窺う資料は、法華経の大意を述べられた「萬善を総取し合して一因と為す」の語である。萬善という方から見れば儒教的に縁の深いお言葉であるが、人間の日常での適正な行為が即ち道なのであり、その道の原因は唯一つで、萬善に対して萬因があるのではなく、孔子も「吾ガ 道 一 以テ 貫ク 之ヲ(貫と之の間にレ点)」と言っており、法華の説く所も正にそうである。即ちこの萬善の一因たる無我執・無妄想の実証体験の方法なのである。
釈尊の仏教は、多くの人間がメタフィジカー、妄想家であるために間違えられ、二千年間違ったまま現在まで解釈されてきている。その間印度においては阿育王と法華子がこれを是正し、日本においては聖徳太子が釈尊の教えを正しく理解し日本に移植されたのである。そして和国の教主と仰がれるのである。
仏教というのは、印度当時の歴史的事情によって、ただひとえに生死苦の解脱の目的に向かって、その方法が説かれた関係上、とかく出世間法と誤解され、世間とは没交渉の様に想われ勝ちであり、事実そうなっている。その実は一般の人の世間観の妄執を指摘して、専ら本質的なものの方へ、即ち徳一又は萬善の一因に向かった結果、主として原因的方法即ち道が常に表になって説かれたのである。また、それを力説するために一般に人が心に抱えている我執妄想の世間観の打破是正が必要であったので、そのために厭世的な宗教と誤解されたに過ぎない。太子の「世間虚仮・唯仏是真」は釈尊の「ヴァヤダンマー・サンカーラー」も同じく、正しい世間観によって、世間の中で正しい道を一貫されたに他ならないのである。同じ真理を求めた孔子の方は、当時の支那の歴史的事情により、治国平天下の問題をとりあげたから世間法的に終始し、道徳が表に説かれて、原因的な方法論が自然と裏になったのである。したがって、これは一つのものの表裏であって別なものではない。ところが兎角人間は自己の認識能力の範囲に捉われ易いことから、仏教は哲学的思索の方向をとって、形而上学的になって本質的のものを失脚し、儒教は一面では規範の形式に捉われて徳目本位、形式主義となり、他面では天命の形而上学的解釈に陥って、知リ 天命ヲ、拠ル 於 徳ニ(知と天の間に二点、命の後に一点、拠と於の間に二点、徳の後に一点)の真意を誤り、人間完成の根本を失ってしまった。太子の憲法も表面は政治的道徳的に教えられ、そして本質発揮の実習方法に仏教を用いられたのである。
以上、富永先生が述べられたように、聖徳太子は仏教と儒教の根本体験に徹し、その真義を明らかにされて、それによって我が国の国家体制の基本と政治の要諦を明徴にされたのである。これが日本の国体である。そして、日本の仏教は法然や、親鸞、道元等いずれも聖徳太子の精神に帰一することにより、正しい生命を得ている。
このように、聖徳太子の十七条憲法は、仏教、儒教の真義を間然するところなく明らかにされ、我が国の国家体制の基本とされたのである。後世の宋儒の形而上的解釈に陥った儒者や観念的教条主義の国学者などは、十七条憲法の偽作説を論じたり、あるいは太子の仏教採用をとり上げて非難している。また、仏教や儒教の真の意味に理解がなく、我が国の建国についての深い認識もない歴史家などは、西洋の唯物史観を適用して聖徳太子を無視しようとしているものもある。
私なども歴史を学んだ始めの頃は、上古の神話時代や不精確な歴史時代、そして儒教や仏教の伝来についての不明確な歴史記述から、いきなり聖徳太子の十七条憲法のような高度の思想や政治が出てくるので、それについての歴史を理解することができなかった。しかし、考えてみれば歴史的記録が伝承されなくても、我が国はそれ以前相当長い期間にわたって、朝鮮半島との往来や帰化人の渡来もあって、大陸文化が伝来し、その影響を受けていたことは否めない事実である。また、『日本書紀』の記録する仏教の正式の伝来からでも聖徳太子の時代までは約半世紀を経ており、論語などの儒学の伝来はそれよりずっと以前の記録がある。これを明治維新の西洋の学術・文化の輸入の年数と比較して考えても、上古の我が国の文化は、宮廷を中心とした上流の人達の間では相当高度の発達を可能とする状況にあっても、一向に不思議ではない。
また、人間的な高度の思想というのは、本居宣長が『古事記』を研究し、『直毘霊(なおびのみたま)』に「真に道あるが故に道てふ言(こと)なく、道てふことなけれども道ありしなりけり」と言っているように、我が国土の上において民族の長い共同生活の中において、自ずから成立した民族性即ち惟神(かんながら)の道が大陸文化の影響を受け、自覚的に思想として把握され、聖徳太子という、英邁なしかも高貴な精神の方が、当時極めて優秀な仏教学者である高句麗の僧恵慈や、博士覚狽ノついて学ばれたことを思うとき、聖徳太子が十七条憲法や三経義疏をつくられ、一方で法隆寺の建築や仏像等の優秀の美術があったことは少しも不思議でない。
特に、当時の豪族対立の世において大陸諸国との国際関係のむずかしい中で、天皇を中心に国家の統一を実現し、国民の安寧のために、苦心経営された背景を思うとき、十七条憲法制定の意義は明らかであろう。
このように十七条憲法の真義が明らかになることによって、我が国の建国の体制と、日本文化の根本が認識され、その後の仏教や儒教の歴史や、我が国民思想の変遷についても理解ができるようになった。 この富永先生の『聖徳太子――殊に十七条憲法について』は、釈尊の正覚及びその後の仏教思想と、我が国民思想の関係について分り易く説かれているので、その大要を本章の最後に記した。
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私は「富永半次郎先生と仏教思想」を書くについて、先生の門下の千谷七郎・桜井保之助の両氏からいろいろ指導と助言を受けた。ちょうど、この文章を書いている時に、桜井保之助著『阿波研造――大いなる射の道』が出版された。これを読んで、近代哲学と日本の芸道という問題について教えられることが多かった。そこで、富永先生の教えを補足する意味で、これについて述べることにしたい。
阿波研造は明治十三年、宮城県桃生郡河北町横川に生まれた。郷里の横川大忍寺の和尚永沼関孝に漢学を学んだ。後明治三十三年雪荷派弓術師範木村辰五郎時隆に入門して弓術を学び、後に剣道、柔道、居合、抜刀術、薙刀なども稽古した。
さらに竹林派の弓術師範本多利実に入門して弓術の奥義を極め、百発百中の術に達した。さらにこれを超えて射裡見性の境地に到達し、弓聖といわれた人である。
明治三十一年から仙台の第二高等学校の弓術師範となって学生の指導に当たった。その他仙台市弓術師範、東北帝大弓道部師範等となり、大日本武徳会範士となり、大射教道を創立した。
桜井氏は二高の学生としてその教えを受け、弓道を修業した。そして、阿波研造範士の誕生百年を記念して門下の人達の依頼を受けて本書を著したのである。
私は本書を読んで、今さらに日本人の芸道の修業、特に武芸の修業が人間形成の上に重大な役割をもっていたことを思った。特に本書の中にある、「第六章・ヘリゲル開眼」を読んで感銘深いものがあった。これについて、本書によってその要点を述べることとする。
オイゲン・ヘリゲルはドイツの哲学者で、明治十七年(一八八四年)ドイツのリヒテンアウに生まれ、ハイデルベルグ大学で神学を修め、のちヴィンデルバンドおよびラスクについて哲学を専攻し、哲学博士の学位を得て卒業した。第一次世界大戦に従軍した後、ハイデルベルグ大学講師となり、大正十三年東北大学に招かれて来日した。哲学と古典語学を昭和四年七月まで教え、同大学から文学博士の学位をうけた。その後ドイツに帰ると、ただちにエアランゲン大学教授に就任した。この大学は神学についてはドイツ第一の大学でフィヒテやシェリングもかつてこの大学の教授として在任した。ヘリゲルは哲学上の立場では新カント学派である西南ドイツ学派に属する。そして、自分がカントからヴィンデルバンド、リッケルトと続く学問の正統を継ぐものであるという自負をもっていた。
ヘリゲルは東北大学に在任中、当時東北大学の教授で、阿波研造について弓道の伝授を受けた小町谷操三博士を介して、研造に入門し、小町谷博士の通訳で夫人のグスティ・ヘリゲルとともに研造の道場において弓道を学んだ。そして、ヘリゲル夫妻は小町谷博士とともに、週一回研造の道場に通うことになった。
研造はその志を喜び、報酬なしで教えることにした。その教えは全然妥協のない教え方で、まず <丹田成息法> の呼吸から訓練し、弓は力で引くのではないと教えた。射は天地一枚のものであるとか、一射絶命であるとか教えられても、ヘリゲルは二千年にわたるキリスト教の風土に育った人間である。キリスト教は愛の宗教であっても、それ以上に意志の宗教、神の意志に貫かれている宗教である。それに対して、意志を抛棄せよと説くのであり、理性による新カント派哲学者であるヘリゲルがこれを習得することは論理として背理である。どれだけ困難なことであるかは、日本人でも禅だとか無だ、空だとかいって、言葉では分かったつもりでも、これを体験することが困難であることを知れば、それは想像にあまることであろう。
ヘリゲルはその困難に耐えた。研造も一歩も妥協することなく、体験にのみ属する世界を理知の世界に引下げ、概念化して事足れりとするようなことはなかった。そしてきびしい修業も四年目になり、日本滞在も残り少なくなった時に、遂にある日、ヘリゲルが射ると研造が「ただ今、それが射た」と叫んで、鄭重に一礼した。そして、巻藁の射四年の後に的(まと)の射を許され、研造は弓道の精神をこの弟子に移すことができた。ヘリゲルは心情と肉体を離間していた意志を滅却し、見性の弓を体験して、清澄自由の心境即ち道に達したのであった。そして、研造はヘリゲルの帰国に当たって、自ら所有する最上の弓を贈った。ヘリゲルは帰国の後も弓の修業を続けるとともに、昭和十一年雑誌『文化』に「弓術について」を載せた。これに対し研造は「半個の射聖を得たり」と言ったという。
また、ヘリゲルは『弓と禅』を著し、これを刊行した。これは弓の道を西洋人に紹介し、大きな反響を与えただけでなく、日本人に対しても貴重な文献である。
さらに、ヘリゲルの修行について忘れてはならないのは、グスティ・ヘリゲル夫人の献身である。夫人も研造に入門した。その前にグスティは武田朴陽について生け花と墨絵を習い始めていた。そして、ヘリゲルもこれに従った。生け花では婦唱夫随で、弓では夫唱婦随であった。
そして、東北大学でヘリゲルが講義をするとき、夫人は一日も欠かさず教室の最後列に坐って講義を聞き、学生の質疑に耳を傾けた。そして夫を助け、ともに弓と花を学び、朴陽から生け花師範の免許状を授けられ、師匠の家紋入りの紋付羽織の着用を許された。そして、著書『生け花の道』を著わした。グスティは弓においては研造から二段を授けられた。
このように夫婦揃って、共に相助けあって道を求め、弓と生け花の道に精進したことは、日本人においても、はたして何人ができるであろうか。そして、これも芸道を通じたから実現されたもので、芸の力の偉大性を示すものであるとともに、道は民族と文化を超えて普遍性をもつことを実証する上において、大きな意味をもっているということができるであろう。
(二) 孤高の芸術家・藤井達吉翁
芸道について述べた機会に、藤井達吉翁の思い出について簡単に述べることにする。私は音楽や武芸についてはもちろん、美術工芸についても、製作の才能は全然ないし、鑑賞の能力にも乏しい。私が美術工芸について関心を深め、芸術と人生について考えるようになったことについては、藤井達吉翁との出会いがある。
私が藤井達吉翁に初めてお目にかかったのは、前に講和記念事業において述べたように、愛知県文化会館建設の仕事をしていた昭和二十九年三月であった。
桑原知事が文化会館を建設するということを伝え聞いた翁は、その所蔵した自分の作品と、収集された古美術などを挙げて県に寄附された。私はその受入れをやり、名残りの展示会を名古屋城郭内の展示室(現在は休憩室)と猿面茶屋で開いた。
私が展示室に行った時、翁は外出用の裁着袴(たつつけはかま)に縫紋の筒袖羽織姿で、陳列の指図をしておられた。彫りの深い顔に頬からあごに白いひげを垂らし、何ともいえぬ深味をたたえた温かいまなざしで、礼儀正しく挨拶された。これは普通の人でないという、強い印象を受けた。
藤井達吉翁-----覚王山日泰寺にて故飯野逸平氏追悼法会にて (昭39.4.5) |
藤井達吉翁は、明治十四年六月六日愛知県碧海郡棚尾村字源氏(現在は碧南市)に生まれ、昭和三十九年八月二十七日岡崎市民病院で死去された。その伝記については、死亡された翌年、私が編集した『孤高の芸術家藤井達吉翁』と、昭和四十九年刊行された山田光春著『藤井達吉の生涯』に、詳細に書かれているのでそれに譲り、ここでは私の見た翁と芸術について簡単に述べることにしたい。
藤井達吉翁は、郷里の小学校を卒えると商店の小僧に出され、朝鮮や台湾などに勤めた。できれば美術学校に入り美術の勉強をしたいと思ったそうだが、家の事情が許さぬので、名古屋の服部七宝店で七宝製作の技術を習った。その間、米国のセントルイスの博覧会に出張の機会があった。そこで、ボストン美術館に通って、西洋及び東洋の美術品を見て、強烈な感動を受け、美術工芸に開眼した。
二五歳になって、服部七宝店を辞めて上京し、貧苦に耐えながら、美術・工芸の勉強を続け、当時高村光太郎の画廊琅王へんに干堂に出品したり、吾楽会やヒューザン会などにも加わり、また国民美術協会の創立にも参加するようになった。また、画家として院展にも出品し、院友に推されるまでになった。
その一方では、主婦の友社の手芸図案などの指導や白木屋百貨店の図案の顧問をやって、美術工芸界で華々しい活動を行った。また、帝展に工芸部を設立する運動も行い、第四部が設立された。
各地の郷土工芸の調査研究とその復活などを企て、瀬戸の陶芸の指導、猿投古窯の調査などを行い、陶芸・七宝・金工・木工・刺繍・染色・一閑張など、美術工芸の全般に亘り制作と指導を行った。しかし、狷介不羈の性格と芸術に対する純粋性から当時の美術界と衝突し、五〇歳を過ぎてからは、自ら昔日の素人(しろうと)にかえると言って、官展等の展覧会には出品せず、美術団体とも一切関係を絶って、時折り個展を開いて同好者の観覧に供し、後援者に頒(わか)つだけであった。
翁は太平洋戦争の末期に真鶴の住居から愛知県の小原村に疎開され、鳥屋平(とやがひら)に住居と制作場を造って制作されるとともに、地元の青年と前から指導された瀬戸の作家などに、陶芸や紙工芸を教えられた。この青年達が現在小原和紙工芸の作家達に成長した。二十五年年末に碧南市新川町道場山(どうじようやま)に転居され、これまで身辺の世話をしていた姪悦子の病死のために、姉の篠(すず)さんと二人で住まれるようになった。そして、前に述べたようにその所蔵した美術・工芸品を挙げて県文化会館に寄贈されたのである。
翁の住居は新川町の衣浦湾に近い所にあり、粗末な木戸を入ると、庭に雑草の生えた平屋の田舎屋と、左手に八畳二間(ま)ほどの仕事場があった。
私はこのお宅をたびたび訪れ、お話を承ったり、新しく制作された作品を文化会館に頂いたりして、次第にその人柄と芸術に対する純粋な精神に傾倒するようになった。翁は、「私は師匠のない有難さ、学校に行かぬおかげで、思うまま幾通りも描く。四條派、南画、土佐派、琳派、洋画、何でもよいと思うものをとり入れて描く」「常に自然を凝視せよ。自然をデッサンせよ。それから抽象画に移れ。自然の不思議を知ることだ、一枚の草の葉のそれを。・・・・・・絵は格がもと。技はデッサンがもと」と教えられた。そして独立独歩、古今東西の美術工芸について研究し、その全領域について多くの優れた作品を遺された。
藤井達吉翁と篠さん達-----四国遍路の途中、大窪寺にて (昭和39) |
さらに、「作品は自分の子供です。不束(ふつつか)な子供でも、もらっていただく相手を選びたいのが親心です。可愛い子供を金で身売りするような非情なことは、たとえ飢えても私には堪えられません」と言われた。そしてその作品を画商に売り渡されなかった。また、その作品に値段をつけられることもなく、気が向けばどんどん人に与えられた。こうして、現代のような金銭経済本位の世の中では、考えられないような生活態度を続けられた。したがって、作品の市場価格もなかった。
それでも、戦前には有力な後援者があり、また主婦の友社や白木屋のようなところからのお礼もあって、随分豊かな生活をされたようで、古美術なども多く収集された。そして、翁には戦後の世態、人情の変化がなかなか理解できないようであった。
県はその作品だけでなく、収集された古美術品まで挙げて寄附を受けた。私はその純粋な人柄に傾倒するとともに、困ったことは、役所としては寄附採納手続をすれば、それに対して対価を出す必要もないし、できないことである。しかし、翁の生活と制作を続けていただくようにすることは、県としても社会的な責任として果たさなければならない。また、芸術に理解が深く、文化政策を重んずる桑原県政としても、重要なことだと思われた。
藤井達吉氏作品-----『四国遍路』より (愛知文化会館蔵) |
翁は自分の作品や収集した美術品を寄贈されただけでなく、これまで一生かかって研究修得された陶芸・紙工芸・木工・金工・漆工芸・七宝・刺繍・染色・織物等の美術工芸の技法を後世に伝えるとともに、これによって美術工芸を産業として発展させたいという、大きな理想をもっていられた。光悦が鷹が峯に芸術村を経営したような事業を行う夢をもち、翁の指名する優秀な工芸家を集め、それらの人達の生活を県に保障してもらって実行したいと思っていられた。しかし、戦後の困窮の時に県の費用をもって、こうした事業を行うことはむずかしい。またそれぞれ、作家として自立した人達を、芸術の鬼ともいうべき翁の思うままに教育するというようなことも困難である。一応各部門の工芸家を集めて相談したが、うまく行きそうにはなかった。
そこで、翁の意向に少しでも沿うように、また翁が制作を続けることができるように、瀬戸や小原の先生の教え子達や後援者で、愛知県総合芸術研究会をつくった。会の名称は「工芸は総合芸術である」という翁の言葉によって名付けた。名古屋財界の長老で、翁の理解者である飯野逸平氏に会長を引受けてもらって、私が実際の運営の仕事に当たった。しかし、この会は翁の理想とは程遠い、生活と制作のための後援会のようなものであった。時々翁の弟子達の作品展や翁の作品展などをやり、何とか翁の制作と生活ができるように続けたが、なかなか翁の思うようにはいかず、不満も多く、時には疳癪を起こされることもあった。翁の理想と現実の世の中のクッションのような役割と思って、この会を中心に翁の晩年をできるだけ平穏にとお世話した。
翁は一所不在というか、自分の思うようにゆかず、気分が行き詰まると突然転居される。新川の住居から「ふるさとはついにわれを知らざりき、知らざるあわれ知られざるあわれ」の一首を残して、沼津市の塩崎家の土蔵を改造した家に移られた。暫くすると、今度は岡崎市の大樹寺裏の斉藤家の屋敷内に移られ、更に湯河原に移られるというように転居される。私は翁の転居は心のままにして、転居されればそこを訪ねて、ご機嫌を伺い、生活費を届けた。
また、四国八十八ケ所の遍路も数回やられた。時には冗談とも本気ともつかず、箱根風外のように、土窟の中で人知れず終わりたいとか、四国遍路の果てに、太平洋に身を投じたいとも言われる。しかし、われわれはそうしたことのないように、せめて翁の家というものを建て、晩年の安住の準備はしたいと思った。ちょうど県の宮崎寮が道路工事のため取り払うことになり、払下入札があった。この家は戦前、名古屋の実業家が別荘を作り、戦後県が職員の厚生施設として使っていたので、以前翁も冬季におられたこともあった。これを買い取って、岡崎市の戸崎町の丘の上に移築した。茶室もあり、庭もつき、まずまずの家になった。
三十五年夏にはこの家が竣工し、翁は湯河原の寓居から移って来られた。その帰郷歓迎会を八事の八勝館で開いた。この席上で、飯野会長は「先生の作品は県の文化会館に納まり、所を得た。先生の家もできたので、今度は落ち着いて制作をやっていただきたい。・・・・・・と申しても、先生はまた他所へ移られるかもしれないが、私どもはそれをお留めはしない。しかし、最後はこの家を忘れずに帰って来ていただきたい。」と述べた。翁も上機嫌で新しい家に住まわれた。しかし、その翌年の春になると、また湯河原の方に移られた。その年末には飯野さんも逝去された。
藤井達吉氏の作品-----継色紙『竹』 (愛知文化会館蔵) |
私は翁が転居されると、様子を伺うためにできるだけお訪ねするが、忙しいのでたびたびは行かれない。翁は離れていると随分よく手紙を下さる。時には小さい作品を入れてくることもある。翁の手紙は殆ど保存している。一〇年間には随分沢山の手紙がある。翁も手紙では率直に気持を現わされるので、これを読むと、芸術に関する考え方や気分の起伏などもよく分かる。感謝もあり、誤解もある。悔恨や憤懣もあり、遺言状のようなものも多い。
翁は手紙は大抵は小原和紙に毛筆で達筆に書き、礼儀正しく封筒に入れ、ほとんど速達で来た。その中で二通だけ鉛筆書きで、原稿用紙一七枚に書いた三十八年七月九日付のものと、一通は同じ年の十二月二十三日に和紙七枚に鉛筆の細字でびっしり書かれたもので、いずれも工芸の技術を伝達できない憤慨や、長い人生を回想しての悔恨や、芸術の道のむずかしさと、晩年の寂莫の情を綿々と綴られたものである。
特に、十二月のものは、「幾度か自決も考えたが、老姉の哀れさにそれもならず、もはや一切を諦め、与えられた命を生きます」と書き、さらに小さな別紙に、
「要するに、一切私の不徳でありますから、無得庵愚助と新しく生れるのであります。実はいのちあれば一月からと思いましたが、そんなことよりも今年からの方がよいと考えました。明日たのむべからずでせう。夢の夢でした。静かに浪々と老姉を連れて、全部歩いてへんろして見たいと思います。春まで死なずばであります。哀れ愚助よ八十幾年を。
ひとの世のたびねかさねてくさまくら ゆくへも知らずけふもかさぬる |
新年になると、「無得庵愚助」と署名した墨絵が封筒に入れて送られてきた。
一月に私が東京の帰りに、湯河原のお宅にお伺いしたら、夕方であったが機嫌よく、最後の大作を仕上げて文化会館に納めたいと、六曲一双の継色紙屏風の制作途中のものを見せられた。いろいろの紙や切れ地を、貼ってあり、「表具屋が来てくれぬので、爺(ぢい)やを相手にやっているが、寒くて手が痛くて困る。」などとこぼしていられた。そして、飯野さんの法要をやりたいから頼むと言われた。
四月には翁の希望通り、日泰寺で翁を施主にして、飯野さんの法要を営み、会員百余名が集まり供養をした。その後、中村松楓閣で翁を囲んで懇親会をやった。この席で継色紙屏風六曲一双を立派に仕上げたものを披露された。この屏風は前面を継色紙の手法で埋め、その上に高山植物を描き、さらに万葉仮名の和歌一二首を書いた大作で、県の文化会館に納まっている。
その後、一旦湯河原に帰った後、四月二十五日八七歳のお姉様を連れ、野々山道雄と小沢一をお伴にして、四国遍路に旅立たれた。全行程を歩いてとはいかないので、二年前の遍路の時お伴をしたタクシーの運転手の角瀬豊という、翁のファンのタクシーで回られた。寺は歩くところもあり、八十八ケ寺を回るのはなかなかの難行であったと思うが、その上に各札所では大判和紙に札所の朱印を捺し、その上に札所にゆかりの風景を描いた墨絵を三枚ずつつくり、全部一揃を遍路画冊として文化会館に納め、その他は一、二枚ずつ関係者に贈られた。
七月には湯河原から、岡崎の翁の家に帰られた。その当時はお元気の様子であったが、間もなく病気が悪化して岡崎市民病院に入院され、遂に八月二十七日、絶筆「山十題」を残して逝去された。総合芸術研究会葬として岡崎市の昌光律寺で葬儀を行い、多数の参会者があった。
絶筆の「山十題」は翁が病院まで持って行かれ、完成されたものである。翁の葬儀の後暫くして私が戸崎の家を訪れた時、お姉様が「これは完成したものかどうかと思って、徳川美術館長の熊沢先生に見ていただいたら、完成していると言われたので文化会館に納めたい。」と言われて、いただいてきた。表装して十本を一箱に納め、桑原知事が箱書された。熊沢館長が「純一無雑、画匠的な臭味を全く払いのけて達せられた、天衣無縫の境地であり、翁ほど宋代の水墨画の神髄に肉迫した人はないといってよい。」と激賞されたもので、翁が自分の白ひげを切り、木片に束ねてつくった筆で画かれたものである。
翁は終生、独身で通され、姪の悦子さんの死後は姉の篠(すず)さんと一しょに生活されていた。お姉様は家事や経済生活についてはほとんど関心のない方で、刺繍をやっていられた。先生の下絵や指導による図案によって作品を作られ、全部文化会館に納められた。芸術についてのきびしさは先生以上といわれた。翁の死後は戸崎の家で静かに暮らされ、会の方で月々の生活費をお届けし、地元の中村くにさん、小原や瀬戸の人びとが代わる代わるに行ってお世話した。翁の一周忌の後、間もなく翁のあとを追うように逝去された。
翁は芸術一筋に刻苦精進、一切の妥協を排し反骨孤高の精神を貫かれた。その作品は一点も画商に売らないという生活を続けたので、変人・奇人のように言う人もあるが、人間として極めて情誼に厚い、礼儀正しい律気な人で、世話になった人には必ず作品でお礼をされた。そして、一期一会と言って、訪れる人には鄭重に、抹茶を点(た)ててもてなし、帰りは必ず門まで見送られた。
私は不思議な縁で、総合芸術研究会の世話をするようになって、藤井翁に接することが深くなるほど、その純粋な妥協のない人柄と芸術に打ち込まれる高い精神に魅せられた。芸術というものに、全く才能がないのであるが、芸術の世界における人間性の追及を翁の中に見出して、それを景仰するとともに、世知辛い世の中と直情孤高の翁とのクッションとして、そのお世話をすることを自分の人間修業とも思った。翁にはいろいろ不満や不自由もあったろうが、兎にも角にもその天寿を全うされ、翁もお姉様も、葬儀委員長としてお送りすることができた。
翁は生前に、藤井家は自分限りで絶家すると言われ、墓は自ら意匠された小さな墓石を藤沢の遊行寺に建て、永代供養料を奉納されていた。
総合芸術研究会は翁の逝去後毎年、命日の八月二十七日前後の土曜日に、日泰寺で法要を営んでいる。毎年百人近くの人たちが集まって、翁を偲ぶ会としている。
そして、文化会館を中心に、時々展覧会をやったり、翁の伝記や図録などの出版をやっている。
前に書いた翁の手紙の中の「真の絵は二百年たたなければ理解されない。」という言葉は兎に角、近年秦秀雄氏が藤井翁の作品を見て、その芸術性の高いことに傾倒され、たびたび県の文化会館にも足を運ばれて、その芸術を世に紹介するために『藤井達吉作品集』の出版に骨を折って下さった。「序文」と「詩情の画人愚翁の絵」と題し、翁の人となりと絵についての詳細な説明を書いていただき、五十五年三月京都の有秀堂から刊行された。
秦秀雄氏には、私は作品集出版を縁に、氏の晩年にご交誼を願っている。井伏鱒二の『珍品堂主人』のモデルと称される人で、北大路魯山人の下で、星が岡茶寮の支配人となり、美術品についての指導を受けられた。そして古美術の鑑賞と研究の会「落穂会」を主宰し、古美術の鑑定・評論に活躍された。『追想の魯山人』『骨董の美』その他多数の著書もあり、美術工芸作品について実に鋭い眼と見識をもっていられた人であった。
藤井達吉翁については、一時翁と親交のあった加藤唐九郎氏も、最近『自伝 土と炎の迷路』の中で、「藤井達吉は、日本の旧い工芸を新しくするのに、もっとも力のあった功労者であり、実に発想が豊富で、デザイン力にすぐれていた。私はたちまち、彼の芸術性に魅了されてしまった。もっと私も勉強しなければいけないと思うと、居てもたってもいられないような気持になった。」、「それは後に彼の門下に集まって来た瀬戸の作陶会の人々や、彼の創意で開発された小原和紙工芸の伝授を受けた人たちも同様の感じを持ったであらうと思う。」と述べている。
藤井達吉氏-----覚王山中村松風閣にて 継色紙屏風の前で (昭39.4.5) |
そして、「藤井達吉という人を大尊敬してしまった私にとって、彼と付き合うにつれて当惑せざるを得ない事態が生じた。
彼は院展にも入選して院友にもなっていたし、社会的な評価も得ていたが、実に物腰態度は慇懃(いんぎん)で、高ぶらないところがあった。それだけに彼の言うことは、何でも諾(き)かなければ申訳ないような気分にさせられた。
ところが、彼は一面確固たる信念の持主であって、仙人の如くに身を処することを自らに課していた。つまり、自分の作ったものを金銭に替えることはもっとも卑しいことである。妻を娶(めと)ることは罪悪だ、まして子供をつくることなど思いもよらない。手に入る金品は、身を高潔に保つことに依って、世の人々から受ける喜捨である―――といったような考えの持主だったのである。こういう基準で人をも見る。」と述べている。
加藤唐九郎氏は瀬戸に生まれた陶芸家で、陶芸の研究と制作における巨匠というに相応しい人である。自分の信念に驀進し、時にはその信念と仕事についての熱意から、黄瀬戸事件とか永仁の瓶子問題などを起こしたこともあった。
私は戦後加藤唐九郎氏のことは話に聞いたり、『やきもの随筆』や『陶器大辞典』等の著書や作品の展覧会などによって知ってはいたが、直接の交渉はなかった。
昭和五十一年に財団法人「翠松園陶芸記念館」を設立されるについて、その設立についての世話を依頼されたので、役員として唐九郎さんとも関係が深くなった。その天衣無縫ともいうべき風格に接し、自分などにない芸術の巨人という感を深くした。その作品と、研究されたり蒐集された陶芸に関する貴重な資料の保全が重要であると思って、翠松園陶芸記念館の仕事に関係している。
加藤唐九郎氏と藤井達吉翁は芸術家としての生き方や性格は全く正反対であるが、芸術の道をそれぞれ自己の信念によって、一筋に進んでいる点を尊敬している。
私は陶芸については全く素人で、鑑識眼もない。最近唐九郎さんが著された『自伝 土と炎の迷路』を読み、その出版と併せて催された「加藤唐九郎の世界」展に陳列された作品を見て、ほんとうに「芸術は長し」という言葉を思った。
この書のなかに、加藤唐九郎氏と林屋晴三氏の対談において、林屋氏が「過去の唐九郎さんの志野には、唐九郎さん自身が意識しているかどうかはとにかく、必ず目前に桃山があったわけですね。ところが、こんどの唐九郎さんの志野には、もう桃山はないんですよ。」と述べている。
私は藤井達吉翁も加藤唐九郎さんも、現代の枠(わく)には納まらない人で、勲章とか美術年鑑のランクによって評価できない芸術家であって、その作品によって、歴史の評価に委せるべき人であると思っている。
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