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序章

論語に、
「子曰く、吾(われ)、十有五にして、学に志し、三十に而(し)て立ち、四十にして惑(まど)はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)ふ。七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず。」 とある。

私も若い頃は、七〇までも生きることができたら、人生というものがわかるようになれようが、病弱な自分などは、七〇はおろか、五〇までも生きることはむずかしいと思って悩んだこともある。しかし、不思議にも命を保って、七〇歳を超えて生きることができた。

「とても心の欲する所に従へども、矩を踰えず」というような境地に達することは及びもつかないが、私のようなものでも、年を重ねることによって、経験を積み、学問を学ぶことによって、自分自身についても、世の中のことについても、それぞれの年齢に応じてそれなりの理解が進んでいるように思われる。そして、人間の一生は、その年齢に応じた学び方と修行が必要であるように思われる。

私はこれまで、自分の過去の経歴や思想について語ったり、書いたりしたことはほとんどない。それは自分のこれまでが、語れるような立派なものでなかったことにもよるが、書物によって学んだ抽象的な思想とか人生観というものが、いかに頼りないものであるかを知ったからである。また人生、一寸先は闇で、無常であるということを思い知らされ、真実の人生の在り方を求めることが、いかに困難なことであるかということを思うからである。

しかし、七〇歳を過ぎれば、進歩どころか忘却の中に没することを思い、自分なりに学び、歩んできた人生の軌跡をたどって書いてみたいと思った。そこでまず始めに、自分の人生行路のアウト・ラインを回想することにしたい。

 

私は明治三十九年十二月十四日、新潟県の最も山奥、福島県との県境の山村の農家の長男として生まれた。そして、雪の深い僻地の自然の中で成長し、小学校を卒業すれば当然に家を継いで百姓になるものと思い、上級の学校に進むことや、勉強のことなどはほとんど考えないで育った。

高等小学校を卒業するころになって、父が校長先生にすすめられたらしく、思いがけず、新潟県立加茂農林学校に入学することになった。これが、初めて試験というものを受ける機会であった。

加茂農林は明治時代に、日本一の農業県といわれた新潟県が、新しい農業教育によって、農村の指導者を育成するために設立された学校で、設備においても、教員構成においても、当時の中学校の水準を超えていた。

特に、寄宿舎においての人間教育に重きを置いた。私はそれまでと全く違った寄宿舎生活の中で、人間形成のための基礎訓練を受け、農林学校の教育を受けた。

私が正規の学校教育を受けたのはここまでである。私の人間教育の基礎は、加茂農林の教育でつくっていただいたと思うが、学問については、ここではまだ入口にも至っていなかった。

当時は第一次世界大戦後の大正デモクラシーの時代で、そうした時代思潮や先生方の影響もあり、また年齢からいっても知識欲の盛んになった頃で、学問というものが大切で、もっと勉強しなければならないと思った。私は理想主義というか観念的というか、その頃から役人になりたいとか、先生になりたいとか、金持ちになりたいとかいう具体的な目標ではなく、内容ははっきりしないが、学問をもっとしなければならない、真理とはなにかということを知りたいと思った。そのためには、明治以来の青年で青雲の志をもつ者がめざしたように、東京の大学で勉強したいと思った。しかし家の経済が許さないので、働きながら夜学で勉強をしようと思った。

それで、東京営林局の雇いに採用されて、まず夜学で英語の勉強からやることにした。ところが、その頃に田舎から気負って東京に飛び出す若い者に最も恐ろしいものの一つであった結核にやられた。その時は肋膜炎だと言われて、東京の病院で治療した後、田舎の家に帰って静養し、どうにかもとの健康体に回復した。これがまず第一回の私の失敗であった。

 

病気になり、挫折(ざせつ)感を味わうと、自分というものを考え、社会の問題とか思想問題に関心をもつようになった。その頃社会問題についての全集物の走りともいうべき、新潮社の社会問題講座をはじめ、人生や社会思想についての書物を勉強するようになった。

上京して大学に行くことは諦めたが、何とか勉強はしたいと思った。そこで母校の有本先生にお願いして、加茂農林で助手に使っていただいて勉強することになった。農林学校の林科の助手であるが、林業のことを勉強するよりは、まず西洋史から勉強を始めた。

専門の学問というものは、初めは象牙の塔とか、真理の殿堂とかいわれるように、真理の体系が楼閣のように高く聳(そび)えているように思った。それに入るには、大学という真理の殿堂に入るための正門を通るのが一番よいが、独学者にも検定試験制度という狭い脇門があるので、それを通れば行けるように思った。

そこで、西洋史の中等学校教員検定試験を受けるために、中学校の教科書と参考書から始めて、独学で順じ、高等学校程度・大学程度の参考書によって、系統的に勉強を進めた。西洋史の勉強には英語の力がある程度必要で、独学者には一番むずかしいと言われたが、英語は東京で前に勉強し、原書もだいたいは読めるので、二年くらいの勉強で、歴史科の内西洋史科の中等学校教員の検定試験に合格した。しかしその頃は、昭和初期の不景気となって、「大学は出たけれど……」という言葉が流行した世の中で、中等学校で直ぐ採用してもらえなかったので、さらに日本史・東洋史科の検定試験に合格して、ようやく新潟県立高田中学校の教員に採用してもらった。

そこで、教師として教壇に立ち、生活も一応安定したので、さらに深く学問の勉強を続けようと思った。ところが、家庭をもち、生活も少しは安定し、授業にも馴れてきて、さてと自分を反省してみると、試験には合格したが、学問とか真理の殿堂とかいうものは、こちらが近づくと、ますます遠くの方に離れていくようである。初めは、自分が独学で、ほんとうの学問の勉強ができていないからではないかとも思ったが、大学を卒業して専門の教員をやっている人達もどうも分かっていないようだ。専門の学者の話を聞いても、著書を読んでも、これが真理だというような納得はできない。

当時はマルキシズムの思想が盛んになって、資本主義の没落、共産主義社会の必然的到来とかいうことが盛んに論ぜられた。福本イズムとか、山川イズムとかが『改造』や『中央公論』などの雑誌で主張され、「赤にあらずんば人にあらず」というような風潮があった。これに対し体制側からは、危険思想の取締りや、思想善導ということが盛んに言われた。

そのうちに、満州事変や支那事変が起こり、われわれの周囲でも友人や教え子も戦地に行ったり、戦死をする者も出てきた。そして遂に二・二六事件が起こるというようになり、非常時の声が高くなって国家主義の思想が強くなり、思想の対立や弾圧は激しくなった。

こうした時代に、教育者としてほんとうの学問を身につけ、思想問題や人生問題について信念をもって対処しなければならないと思った。しかし、自分にはこれがほんとうの正しい思想であり、学問の真理だと自信をもって言えるようなものはないと、――焦りと悩みが段々と強くなった。

 

こうした時に、幸い、昭和十一年十月から六か月間、国民精神文化研究所の中等学校教員講習科に入所することができた。そしてこの講義や座談会において、各方面の代表的学者や思想家、あるいは宗教家にじかに接してお話を承ることができた。独学でやってきた自分にとっては、学者に直接に学ぶということは、見解を広めるとともに、学問と人との関係を知る上において、大変よい機会であった。

また、研究所では研修生は自由に図書室の閲覧ができ、発禁処分の思想書なども読むことができた。その中でブハーリン著・直井武夫訳の『唯物史観』を読んでいるとき、これまで自分が勉強し、考えてきた日本のマルクス学者の唯物論の物の概念とちがうのではないかと感じ、強い衝撃を受けた。また、北一輝の『日本改造法案』を読んで、これは日本精神といっても、マルキシズムの焼直しの観念論で、この程度のものが二・二六事件の昭和維新の指導理論では情けないように思った。

この研究所で、私が最も大きな影響を受けたのは、紀平正美(きひらただよし)博士から「行の哲学」について教えていただいたことである。学問というもの、知識というものを哲学的に考える一つの転機となった。そしてその後、橋田邦彦先生の「行としての科学」を勉強し、「科学と人間」ということについて考え、行と学が一体であることがだんだんと理解でき、加茂農林以来私が師事している西山大串(たいかん)先生の研鑚されている道元禅師の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』についても勉強するようになった。

さらに国民精神文化研究所に入所中に、研究所の助手の小山門作氏と親しくなり、その関係で富永半次郎先生との邂逅(かいこう)の機縁を得て、戦後は主として富永先生から、「釋尊の正覚」について教えていただくようになった。

そしてこの研究所の研修を契機に、自分の勉強について当初考えていた、真理の殿堂とか、絶対の真理の探求とかいう、幻影(まぼろし)のようなものは消え、学問ということは自己を明らかにし、人間をつくることが根本であるということに気がついた。学問の方向が一八〇度の転回をしたというようなものであって、それだけにますますむずかしく、当時の学校の非常時型教育にはついて行けないように思った。

そこで、苦しまぎれというか、かねて考えていた法律の勉強をやって、昭和十四年の高等文官試験の行政科試験に合格した。そして思いがけず、当時の内務省人事課長町村金五氏に見出していただいて、内務省に採用された。そして今度は、地位も安定し、新しい仕事をやることによって生き甲斐も感ずることができるように思った。

 

ところが、これまでの無理が祟ったというか、ほっとした機会に、長年胸の中に閉じこめられていた肺結核が再発してしまった。初めはしばらく安静にしていれば良くなると思ったが、一進一退の療養生活を続けなければならなくなって、そのうちに太平洋戦争となり、戦時中五年間療養生活を続けることになった。

今度は書物の知識の上で、人生とか、生死とか考えるのではなく、自分の身体(からだ)で現実に死に直面しながら、戦時下の厳しい環境の中で、家族も自分も何とか生き抜かなければならなかった。そして、最後は昭和十九年の夏から、茨城県の傷痍軍人療養所村松晴嵐荘に入れていただき、その頃ようやく試験期から実用的な肺結核の治療法に進んだ胸郭成形手術を受けた。左の肋骨七本を切除して肺を圧縮し、命だけは助かり、戦後の世の中で社会復帰ができるようになった。

内務省の身分に復活させていただき、昭和二十年十二月、浦賀引揚援護局総務課長を命ぜられた。半年余り引揚援護の仕事をやり、翌年和歌山県勤務となった。二十二年五月地方自治法の施行とともに愛知県勤務となって、以来ずっと愛知県で地方公務員の生活を続けることになった。

晴嵐荘から社会復帰をする時、木村猛明(たけあき)荘長から教訓されたように、文字通り片肺飛行なので、一人前の身体でないことを自覚し、再び働けることを感謝しながら、少しでも世のために尽くすことができれば幸いと思って勤めるように心がけた。

しかし、人間というものは我が侭(まま)なものであるから、人間の完成などは容易でないことは、ますます意識されたので、戦後は富永半次郎先生の許に時々参上し、教えを受け、自分なりに勉強だけは続けなければならないと思った。

行政の仕事をやりながら、それに必要な法律や経済の学問を勉強するとともに、富永先生の教えである「釋尊の正覚と佛教思想」を中心に、人間形成についての勉強を続けた。

生れつき不器用でその上長い療養生活のため、勝負事はもちろんやらないし、物事に熱中してはならないと思い、仕事についても、人生の問題についても、百点満点などは考えないで、六〇点とれれば上等と思ってやってきた。

行政の仕事でも人生の問題でも、未来については、人間の知識で確実に分かるのは五〇%までであり、科学的・客観的な知識で五〇%以上確実に駄目と分かれば、それはやってはならない。五〇%以上客観的に可能性があれば実行の決断をしなければならないと思う。ぎりぎり五〇%線上に立って決断を要するのが人間としての責任ではあるまいか。そして、やって見て油断なく足らぬところを補正しながら、試行錯誤によって進む他ないのが人間の生き方ではあるまいかと思う。

武田信玄が「凡そ軍勝五分を以て上と為し、七分を中となし、十分を以て下と為す」。「五分は励(はげ)みを生じ、七分は怠(おこた)りを生じ、十分は驕(おごり)を生ず」と言った言葉が『名将言行録』にあるが、この辺を言ったのであろう。

それだから、どんなことでも三分の一は批判反対があるのは当然で、一人でも反対があればやらぬとか、六分以上の結果を求めたり、結果を自分の力だなどと思うのは僭越ではないかと思う。

 

私は幸いに、昭和二十六年以来、政治・行政においても人生についても、達人として尊敬している桑原知事の下で、県政の一端を担当し、指導を受けることができた。そして定年まで勤めることができ、その上に副知事として県政の枢機にも参加させていただくことができた。

そこで、副知事退任後は、戦後の桑原県政についての記録を残すことは自分の責任でもあると思い、戦前にできた『愛知県史』に続く形で、『愛知県昭和史』を編集することにした。その監修をやりながら、自分の勉強についても仕上げの意味で、自分の生きた時代の思想や、社会情勢、及び行政や法律の実際についても書き残したいと思って、県の文化会館の館長にしていただいた。

ところが間もなく、名古屋高速道路公社が国・県・名古屋市の共同事業として設立されることになり、その理事長を命ぜられた。『愛知県昭和史』の方は、岡田英雄編集室長以下関係職員の努力によって、予定通り県政百年記念として完成し、私も公社の仕事のかたわら監修に当り、監修者としての責任を果たすことができた。

名古屋高速道路の方は公社は発足したが、事業は市長選挙で杉戸市長に代わって本山市長が当選し、建設問題が難航して予想以上に苦労をすることになった。ようやく工事再開が決定した機会に、任期も到来したので退任した。

ところがその後間もなく、名城大学の理事長に就任することになった。大学は学問の場で勉強には都合のよい面もあるが、理事長は経営の責任者としてむずかしい仕事もあって、なかなか勉強の方は進まない。

 

私は前に述べたように、『論語』の文句のようにはいかなくても、その年齢の段階に応じて、人生の理解が進み、七〇歳にもなれば、自分なりに人生の見当もつき、自由の境地で、人生についても書くことができようと思った。そして人生は十年位を一つの段階として物の見方が進むように思い、また独学といっても、それは正規の学校で学ばないだけで、それぞれの重要な時期にいろいろな先生に直接、または著書等を通じて、教えていただいたので、七〇歳に至れば、自分なりに、自分の人生について学び考えたことを整理し、まとめて書き留めて置きたいと思っていた。特に、私のような変則の人生行路を歩いてきた者には、自分の人生の仕上げのためにも、それが必要であり、これまで生かしていただいた報恩のためにもやらなければならないと思った。

しかし、いざ書きはじめてみると、自分の未熟さと、文章のむずかしさが分かった。特に、私のように仕事の片手間に本を読んで勉強してきた者は、分かったようでも自分のものとして書くことの困難を感ずる。自分の経験でも、書くとなると、その記憶はまことに頼りない。それで、参考書や資料に当ってみなければならない。読み直してみると、前に読んだ時とはちがった意味が見えてくる。さらに関連した勉強も必要となる。しかし、その一方では、書くための責任というものを感ずると、読むものも、聞くものも、日常の経験でも常に書くということと関連して考えたり、メモを取ったりすることになり、自分の考えを確実にし、深めることに役立つことができるようにも思った。それだけに、自分の力の不足を感じ、文章を書くことのむずかしさを知り、なかなか思うように進まない。

せめて、和歌とか俳句のようなものを、その時々に作ってあればよかったと思うが、その才もなく、勉強もしていないので致し方がない。

それでも、私のような拙い文章でも、人生の最後のしめくくりとして、この年まで生かしていただいたことを感謝し、生きた証(あかし)として書かなければならないと思い、書き綴ることにした。

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